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第44章

「それでね、ジョンが白目で寝てる画像を、サヤが急に送りつけてきて。授業中に見ちゃったから笑い堪えるのに必死でさ」


 楽しそうに笑うユキナの話に、樹は隣を歩きながら相槌を打つ。

 いつもと変わらない登校風景だった。


「見てよ、ほら」


 スマホの画面を開きながら、ユキナは身を寄せてくる。


「白目でも可愛いな、ジョンは」


 樹は画面を一瞥してそう言うと、歩幅をひとつ分ずらすように、さりげなく距離を空けた。


「たつってジョンなら何でも褒めんじゃん」


「リッカとジョンは何しても可愛い。見ろよ、俺のホーム画面なんてリッカの――」


 樹がポケットから取り出したスマホの画面を、ユキナは何気なく覗き込んだ。


 樹がロックを解除した瞬間、画面いっぱいに表示されたサムネイルに、ユキナは思わず「え」と声を漏らした。


 胸元を強調した裸の女性が、挑発的なポーズでこちらを見つめている。画面上部には、動画サイトのタイトルが表示されている。


「ねえ」


 ユキナはじとっとした目で樹を見る。


「あ」


 樹は表情ひとつ変えないまま、画面を見下ろした。


「閉じ忘れてた」


「閉じ忘れてた、じゃないよ……。こういう画面見せつけてくるとか、セクハラだからね」


 ユキナが言うと、樹は悪びれもなく笑う。


「俺の推し、かわいいだろ」


「はいはい、いつもの人ね。可愛い可愛い」


 ユキナはため息混じりに答えた。


 通学路を歩く、同じ制服の生徒たちの姿が視界に入る。


「早く画面閉じなよ」


 呆れるユキナを見て、樹は面白そうに笑いながら、ポケットにスマホをしまう。どこまでも普段通りだった。


* * *


 部室に寄るというユキナと別れて、樹は教室に入った。

 朝のざわめきが一気に耳へ流れ込んできた。


 笑い声。机を引く音。スマホのシャッター音。


 窓際では男子が騒ぎ、教室後方では、女子が動画を撮っている。


 樹は数人に声をかけられ、軽く言葉を返しながら自分の席へ向かった。


 鞄を机の横に掛けたとき、近くの席の男子に声をかけられた。


「大杉、はよ」


「おす」


 少し微笑んで、適当に返す。


 椅子に座りながら、胸の奥で小さく息を吐く。


 さっきまで、ユキナと並んで歩いていた。

 いつも通り笑っていたし、普通に話していた。不自然な沈黙もなかった。


――気づかれていない。


 毎朝、ユキナの顔を見るたびに思う。紗江とのことを知られていないか。自分を見る目が変わっていないか。そんなことばかり気にしている自分が、情けなかった。


 机に肘をつきながら、樹はゆっくり息を吐く。

 教室は騒がしいのに、自分だけ違う空間にいるようだった。


 机の上にスマホを置く。

 さっきの動画サイトのやり取りが頭に浮かんだ。


 ああいうくだらないことで笑っているのが一番楽だった。

 本当に触れたくないものから目を逸していられる。


 あの動画だって、紗江の生々しい感触を薄めて、ユキナの幻想を誤魔化すための、謂わば逃避アイテムだった。


 関係を終わらせたところで、紗江を傷つけながら欲に溺れた事実が消えると思えるほど、樹は身勝手にはなりきれなかった。このまま逃げていいはずがない。


 それでもユキナの隣で笑っている時だけ、一瞬、考えること自体をやめたくなる。


 紗江の気持ちを思うと、このままじゃダメだとわかっているのに、どうしても、身動きができなかった。


* * *


 ユキナは、顧問に部室の鍵を受け取り、部室に荷物を置いてから自分のクラスへ向かっていた。


 廊下の床が、朝日を受けて淡く光っている。

 教室の扉の前を通り過ぎるたび、笑い声が(こぼ)れては消えていく。


 少し先の廊下の向こうに、人影があった。光を受けた髪の色も、制服越しの肩のラインも、見慣れたものだった。


 ユキナはその姿に向かって、小走りに駆け寄る。


「紗江! おはよ」


 声を掛けると、紗江は振り向いた。


「ユキナ。おはよう」


 返ってきた笑顔は、心なしかいつもより陰って見えた。


「ユキナ……一人?」


 紗江の視線は、ユキナの隣にいるはずの人物を探すように揺れた。


「私は部室寄ってカメラ置いてから来たの。たつならもう教室にいると思う」


 ユキナが樹の名前を口にした瞬間、紗江の肩がほんの僅かに揺れる。


「紗江、たつに何か用事――あ、やば!」


「どうしたの?」


 突然声を上げたユキナに、紗江は首を傾げた。


「英語の教科書忘れた! 今日、一時間目、現国から英語に変わったんだ」


「あらら。私のクラス今日英語ないから、貸せないな。ごめんね」


 申し訳なさそうに言う紗江に、ユキナは首を横に振る。


「ううん、いいのいいの。今からたつに英語あるか聞いてくる。あ、紗江もたつに用あるんだっけ。一緒に行こ!」


 紗江は口を開きかけたが、何か答えるより先に、ユキナは彼女の手を引き慌ただしく走り出した。


 廊下は、登校してきたばかりの生徒たちが溢れている。すれ違う生徒を避けながら、2年1組の教室まで来ると、ユキナは足を止めた。


「たつー!」


 教室の入り口に立ち、遠慮なく声を張り上げた。

 ざわついていた教室の視線が、ユキナへ向く。


 友達と談笑していた樹と目が合うと、彼はあからさまに顔を顰めた。面倒くさそうに、ユキナのいる入り口まで歩いてきた。


「お前、いつも声がバカでけえんだよ」


「ごめん!ちょっと急ぎで」


「なんの教科書」


「あ、わかった?」


「お前が来る時はそれしかねえだろ」


「そんなことないじゃん、この前は回し読みの漫画貸しに来てあげたじゃん」


 ユキナといつもの言い合いをしていた樹は、彼女の後ろに所在無げに立っている紗江に気が付いた。目が合うが、樹の視線はすぐに逸れた。


「なんの教科書か早く言え」


「英語。今日ある?」


「……待ってろ」


 樹はその場を去った。


「助かったー」


 ユキナは胸を撫で下ろした。


「良かったね」


 紗江は微笑んだ。


 程なくして樹が教科書を持って戻ってきた。


「ほら」


 樹に差し出された教科書を受け取り、ユキナは言った。


「ありがとう。たつは英語の授業、何時間目?」


「お前の次。二時間目」


「じゃあすぐ返しに来るね」


「あ、紗江、たつになんか用あるんじゃなかったっけ?」


 突然話を振られ、戸惑ったような表情を浮かべる紗江を、樹は無表情のまま見る。


「……何?」


 樹が聞くと、紗江はふわりと笑う。


「ううん。何もないよ」


「あれ?」


 ユキナは不思議そうに言う。


「ユキナ、私が答える前に走り出しちゃうんだもん。大杉くん、何でもないの。ごめんね」


 紗江は明るく笑った。

 何も答えない樹に、紗江は俯く。


 そのぎこちない沈黙に重なるように、チャイムが鳴り響いた。


「やば、本鈴。たつありがとね。紗江、行こ」


 ユキナは慌てて教科書を抱え直し、紗江と一緒に廊下を引き返した。


 紗江と樹の間に漂う空気が、これまでと違っている。

 鈍感なユキナでさえ、はっきりと感じ取れるほどに。

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