第43章
もう何度目かわからない。
転がり落ちている自覚はあるのに、底が見えない。そのことが、樹には気が狂いそうなほど怖かった。
紗江の部屋の壁に、彼は背をもたれかけるようにして立っていた。
その前で膝をつきながら、一生懸命に動く紗江。
彼女の頭に手を添えたのは、ただ自然な流れだった。
けれど、その手に無意識のうちに力が入っていたことに気づいた瞬間、彼は背筋がぞわりと粟立つのを感じた。
紗江の頭を押さえる手に、自分でも驚くほどの欲がにじんでいた。
彼女に夢中になっているふりをして、実際は、ただこの状況に酔っている。
好みの顔の紗江が、受け入れてくれている。拒まない。責めない。
「我慢しないで。全部受け止めるから」
彼女のその声に、樹の視界が揺れた。
優しくて、どこまでも温かい声音。
悪意も、疑念も、何ひとつない。
先ほどまでの得体の知れない恐怖と背徳感が形を変える。鋭利な刃物となり、心臓を抉られた気分だった。
――俺は彼女を代用品にしている。
樹に向けられた紗江の笑顔がたまらなく綺麗で、抉られた傷が耐え難いほど痛んだ。
唇が震え、鼻の奥がつんとした。涙の理由さえもうわからない。
ただ、自分がどこまでも最低なまま、彼女の体温にしがみついていることだけは、わかっていた。
体を重ねるたび、意識はどこかへ遠のいて行く。
このまま世界ごと沈んでしまえばいいと、本気で願った。
* * *
「タバコ、吸ってもいいよ」
樹が制服のズボンのホックを留めているとき、紗江は飲んでいたミネラルウォーターのペットボトルをベッドの棚に置きながら言った。
「……いや。窓開けても、多分しばらく残るし」
「別に平気。普段から、親は私の部屋になんて来ないから」
「それに、香りが残った方が、大杉くんがずっとそばにいるみたいで嬉しい」
「………ごめんな」
その声は、絞り出したように低く、掠れていた。
開け放たれた窓から吹き込む夜風が、ゆっくりと肌を撫でた。
樹は上裸のまま窓辺に立ち、煙草に火をつけた。
ひと吸いして、肺の奥に溜め込んだ煙を静かに吐き出す。
その煙が、月の光を斜めに割って、ゆらめいた。
ベッドのシーツが擦れる音がする。
キャミソールにカーディガンを羽織った紗江が、裸足のまま床を歩き、樹の背中へ静かに寄り添った。細い腕が腹に回り、彼女の額が、肩甲骨のあたりへそっと触れる。
樹は何も言わず、それを受け入れる。
部屋の掛け時計に目をやると、時刻は20時半をすぎていた。
「前に親の帰り遅いって言ってたけど、毎日こんな時間までいないのか?」
振り返らずに訊いた声に、少しの静けさが返る。
「うん。うちシングルなの。お母さんは毎日残業したあと、そのまま外でご飯食べて帰ってくるんだ。帰宅は22時過ぎるよ」
樹は煙を吐きながら、わずかに頷いた。
「だから、気兼ねなくいつでも来ていいよ」
その言葉に、樹はわずかに顔をしかめた。
「そういう話じゃねえよ」
そして、呟くような声で言った。
「……しんどいよな。待つのって」
紗江は少し間を置いて、首を横に振った。
「気楽だよ」
そして、樹の隣へ静かに並ぶ。
その横顔は、窓から差し込む月の薄明かりに照らされていた。
穏やかな笑顔だった。けれど、その笑みはまるで、一人きりで凍えないために身につけた、仮面のようだった。
「俺も父子家庭なんだ。だからわかる」
夜がどれほど長いものか。
音のない部屋で、どれだけ時間が牙を剥くか。
「そっか。大杉くんも」
ただ誰かの体温を感じていたくて、自分がここにいていいと信じたくて。
平気なふりをしていないと、今にも崩れてしまいそうな脆さを抱えながら、自分を守るために、無表情という鎧で身を固めるしかなかった。
彼女の笑顔が、自分自身のそれとまるで重なった。
月明かりの下で笑う彼女を前に、樹は自分の犯した罪の重さを、今更思い知った。
携帯灰皿に、僅か先端しか焦げていないタバコを押し付け、火を消した。
* * *
紗江は頭の中で、樹の言った四文字を反芻した。
ごめんな
そう言った彼の顔は、見たことのないくらい悲しそうだった。
その意味を探しかけて、考えるのをやめた。どうにもならないことに立ち止まらない――そんな癖が、いつの間にか身についていた。
紗江はとっくに気づいていた。
きっと彼は自分と同じだ、と。
そして、同じ罪を、同じ夜に犯した。
互いに、互いの弱さを利用して、穴を埋めた。
紗江は自分が計算高くずるいことをわかっていた。そのくせ懲りずにちゃんと傷ついている。
でも、おそらく彼自身も、何か真っ黒なものにがんじがらめにされている。
それでも、必死にもがき続けている。
その闇の出どころはわからなくとも、彼の葛藤が、紗江には手に取るようにわかった。
劣等感、不安、迷い、孤独――絶望。
重苦しい感情が、幾重にも折り重なっている。
樹に初めて抱かれた日、彼はずっと苦しそうな顔をしていた。終わったあと、紗江を見て、寂しそうに笑った。
強く抱きしめられても、彼はここにはいないとわかった。
あの日、別れ際、紗江は言った。
「ありがとう」
言ってから、自然と笑みが溢れた。それは偽りのない紗江の気持ちだった。
でもその瞬間、彼は瞳を大きく見開いた。
あの日も、今日も、彼の目に涙が滲んでいたのを、暗闇のせいにして、気付かないふりをした。
この状況で彼に優しくすることは、きっと残酷なことくらい、紗江はわかっていた。
それでも彼に愛情を向け続けた。
そうすれば彼はきっとひどく悩んで、ここから抜け出せなくなると思った。
どうしても樹が欲しかった。綺麗事なんて必要ない。良心に漬け込んで繋ぎ止めている。それでも良かった。
樹はいつもすぐには帰らなかった。
彼の腕の中でうとうとするこの時間が、やがて紗江のすべてになった。
ほんのわずかに歪んだ口元と、どこか遠くを見ているような目。
髪を撫でる手は彼の懺悔だと思った。
それでも紗江はいつも、気づかないふりをして目を閉じる。
煙草を勧めたのは、紗江から彼への、せめてものお詫びの気持ちだった。
ドアが静かに閉まり、彼の気配が消えたあとも、煙の匂いだけがかすかに残っていた。
紗江は、僅かに温もりの残るシーツに触れる。
「ごめんなんて、いらないよ……」
部屋に漂う煙草の香りを吸い込んだ。
――彼は、きっと、もう来ない。




