第41話
樹には、感情をぶつければ相手の心が動くと思っていた頃があった。
声を上げれば、ちゃんとこちらを見てくれるのだと。
幼い頃、彼はそれを疑ったことはなかった。
特に、母親という存在は、無条件で愛を与えてくれるのだと勝手に信じ込んでいた。
だからあの時、迷わず追いかけた。
声を上げて、服を掴んで、泣いた。
それでも、母は樹を一度も見なかった。
あの日振り払われた小さな手は、行き場を失って、空で止まったままだった。
閉ざされたドアを目の前にして、樹の中で決定的に何かが冷えた。
ああ、と幼い彼は思った。
これだけ感情を剥き出しにしてもなお、母にとって自分の存在は、立ち止まり引き返す理由にはならなかったのだと。
だから、それ以来。
声を荒げたり、泣いたり、必死で縋ったり。感情を表に出すことを封印した。
そんなことは、この世界では何の役にも立たない。
本気で求めたあとに残される空っぽを。
届かなかった時の傷の深さを。
あの日、樹は知ってしまった。
* * *
その日は平日だったが、市の教員研修のため、学校は休みだった。
午後三時。樹は勉強の合間の気分転換に、少し早い夕食の支度を始めていた。
玄関のほうで、光樹が帰ってきた気配がする。
そういえば今朝、「今日は早く帰れる」と言っていたと思い出す。確か、取引先から直帰するとのことだった。
「ただいま」
リビングへ入ってきた光樹に、言葉を返そうと目をやると、
「ねえねえ、たつ!!」
突然、ユキナが視界に入り込んできた。
「うわ」
樹は思わず、半歩後退りした。
「……なんだよ、いきなり」
「家の前で会った。お前に見せたいものあるってよ」
光樹はネクタイを緩めながら、驚く樹に言った。
「見てよこれー!」
楽しそうにそう言ったユキナの手には、木箱のオルゴールがあった。蓋には、子供の字で「たつ・ゆき」と書かれている。
樹は久しぶりに見るそれを、思わず手に取った。
蓋を開けると、「It’s a small world」の曲がゆっくりと流れ出した。
ガラクタが、たくさん入っている。
幼い頃、二人で宝物をしまった記憶が、断片的に蘇る。
「クローゼットの奥から出てきてさ、見るまで忘れてたけど、見たら色々懐かしくて」
小さな貝殻や、きれいな石。ビー玉、鳥の羽に、キーホルダー。外国の硬貨も入っている。
それに、ユキナがフェルトで作った――
ベア太郎。
香り玉がふわりと香り、樹の脳を揺さぶった。
儚く鳴り続ける懐かしい音色。懐かしさに目を細めて、嬉しそうに笑うユキナ。
彼女の指先に吊るされて揺れるベア太郎が、こちらを見ている。
地獄だった。
もう戻ることの出来ない日々が、まざまざと思い起こされ、猛スピードで通り過ぎていく。
樹は、今にも膝から崩れそうになるのを必死で堪えた。
この薄汚れた手で、彼女に触れることなど到底赦されないと思った。この目に映すことすら、もうしたくなかった。
* * *
樹は寝返りを打った。
先ほどのオルゴールの音色が頭から離れず、寝付けなかった。
すっかり醜い化け物に成り下がってしまった現実を思い知らされるようだった。
――十字架を突きつけられた吸血鬼はきっと、こんな気分だ。
目を閉じる。紗江の肌に触れた記憶が、まだ身体中に残っていた。
柔らかく、熱く、受け入れてくれる感触。
それを思い出すたび、体は勝手に反応した。
ベッドに横たわったまま、目は開けない。
頭の中に浮かぶ顔は、紗江ではない。
以前よりもずっと生々しく、ユキナの姿が迫ってくる。
肌の質感、髪の香り、唇の形。
――全部、紗江で覚えたものだ。
紗江の体を通して、ユキナの幻を育ててしまったことに気づく。
喉の奥で声にならない息が漏れる。
どれだけ紗江と重なっても、夜になると同じことを繰り返していた。
指を動かすたびに、罪悪感がじわじわと広がっていく。
甘く鳴く声と、潤んだ瞳。
――ユキナはそんな目で俺を見ない。見せたくもない。所詮、これは幻だ。
欲望に負けるたび、彼女が遠くなるような気がして、震えるほど恐ろしいのに。
それでも、やっぱり、止めることはできなかった。
最後にひとつ息を吐く。
目を開けるのが、怖かった。




