第40章
「うちの親、いつも遅くまでいないんだ」
樹が床に放り出された服を拾い上げている時、紗江はベッドから、その背中にぽつりと溢すように言った。
「だから、また――」
そこで彼女は、小さく言葉を切った。
「また、勉強、おしえてね」
それが違う意味を含んでいることはわかっている。それでも樹は、頷いた。
「ああ」
エアコンの低い駆動音が、部屋の空気をゆっくり撫でていく。窓の外では、雨が絶え間なく降り続いていた。
「ありがとう」
そう言って優しく微笑んだ彼女を見た瞬間、樹の体内に重いものがずしんと落ちた。心臓のあたりがものすごく痛んで、平静を装うので精一杯だった。
この部屋に、これ以上いたらまずいと思った。
どうやって紗江の家を出たか、記憶が曖昧だった。とにかく、気づけば見慣れた住宅街にいて、濡れたアスファルトが街灯をぼんやり反射しているのを見ながら、黙って歩いていた。雨はいつの間にか弱くなっていた。
家の近くまで来たとき、彼は必死で、ユキナに会わないようにと祈った。
今のまま彼女の顔を見たら、まともに立っていられる気がしなかった。
紗江が持たせてくれた、何の変哲もないビニール傘を持っていることさえ、どうしようもなく居た堪れなかった。ユキナどころか、誰にも会いたくない。
樹は、誰かに追われるように足早に歩いた。玄関を開け、勢いのままドアを閉めると、すぐに自室へ駆け込んだ。
部屋のドアに背中を預け、立ち尽くす。
肺がうまく空気を吸えない。浅い呼吸だけが何度も喉を擦っていく。湿ったシャツが肌に貼りつき、気持ち悪かった。
目を閉じて呼吸を整える。ベッドの上で微笑んでいた紗江の顔が浮かぶ。
「ありがとう」
あの柔らかな声が、耳に残って離れない。
樹は乱暴に顔を覆った。
指先が震えていた。
こんなふうになるくらいなら、最初から踏み込まなければよかったと、何度も思った。
けれど踏み留まったところで、ユキナがこちらを向くわけではない、と樹は思った。
――結局、自分はどこへ行っても……。
不意に古い記憶が掠める。
遠ざかっていく背中。
振り向かなかった人。
選ばれなかった自分。
――居場所なんて、きっと初めからなかった。そんなものは、あの日も、今も、自分の幻想だ。
触れれば傷むだけの感情など、胸の奥底にまるごと沈めてしまえばいいのだと思った。今までだってそうして何とか生きてこれた。
樹は俯いたまま、しばらく動けなかった。
遠くで、しとしとと降る雨の音が聞こえた。
* * *
その次は、そうなることがわかっていたから、言葉は必要なかった。
二人は一瞬でシーツの中に溶けていった。
紗江の声が耳元で震えるたびに、樹の胸の奥が軋んだ。
目を閉じると浮かぶのは、やはり別の顔だった。
樹の上で、形も大きさも自分の“理想”そのままのそれが、揺れている。
彼はその動きにただ集中した。今目の前で乱れる彼女を心に植え付けるように。
一瞬の快楽と、永遠に続くかのような苦しさ、そして最後はいつも、自分の惨めさに吐き気がする。
それでも、止められなかった。
樹は、彼女が抱きしめ返してくれるたび、自分が赦されているような錯覚がして、それに縋るしかなかった。
伽藍堂だとわかっていた。それでも、その場しのぎの綺麗事で必死に飾っていたかった。愛とか、そういう名前をつけて。




