第39章
昇降口で、紗江は空を見上げた。
一面の曇天だった。光が差し込む隙間は、どこにも見当たらない。
――大杉くん、ちょっと困ってたな……。強引すぎたかも……。
なかなか来ない彼を待ちながら、空と同じ重さが胸に広がっていく。
「悪い。ホームルーム長引いて」
振り向くと、樹がワイシャツの第二ボタンを外しながら立っていた。
「あつ……」
そう呟き、シャツの襟元を摘んでぱたぱたと仰ぐ。
「急いで来てくれたの? ありがとう」
首筋を伝う汗と、わずかに乱れた呼吸を見て、紗江は小さく微笑む。
「連絡するより走った方が早いと思って。かなり待たせたよな。ごめん」
並んで校門を出ると、湿った空気が肌にまとわりつく。結局、雨はまだ降らない。
それでも、紗江の心には、先ほどまでの重さはもうなかった。
先にバスに乗り込む紗江に続き、樹はICカードをかざした。
「はい。これ、往復分」
並んで座席についてから、紗江は財布から小銭を取り出し、差し出した。
「いらん」
「ダメ。受け取って」
そう言った紗江の手を、樹はそっと押し返す。彼のその行動に、紗江は諦めたように、小さく息を吐いた。
「……じゃあ、また今度、あのカフェ行こう。コーヒーご馳走するから」
「有森って、律儀だよな」
窓の外を眺めながら、樹は少し笑った。
「そうかな」
紗江は無意識に、樹の視線を辿った。見慣れた家々が、形を変えて後ろへ流れていく。気づかれないように、樹の横顔へ視線を滑らせる。
鼻筋は高く通っていて、深く落ちる目元の影が、横顔の輪郭を際立たせている。太めの眉も、はっきりとした骨格によく似合っていた。どこかエキゾチックな濃い顔立ちは、無愛想な表情をしていても妙に目を引く。
移ろいゆく景色の中で、その横顔だけが、不思議なくらいくっきりと視界に残った。
景色を見るふりをして、ずっと眺めていた。
ふと、いつもより彼の表情に力がないことに気づく。窓の外を見ているのに、何も見ていないみたいな目をしている。
「大杉くん」
少し身を乗り出して、顔を覗き込む。
「今日、なんか元気ない?」
「……そんなことねえけど。今日、いろんなやつにそれ言われるな。そんなやばい顔してるか、俺」
「ううん。やばい顔はしてない。いつも通り格好良いよ」
「……どうも」
「ただ、なんか疲れてる感じ。別の日にした方が良かったかな。大杉くんの都合も考えず、ごめんね」
「元々約束してたんだから、有森が気にすることねえよ」
* * *
バスを降り、住宅街を少し歩く。紗江の家は、似たような家々が並ぶ通りの奥にあった。
「どうぞ」
玄関の扉が開くと、中はひんやりとしていて、外の湿気が嘘みたいに消える。
「お邪魔します」
「誰もいないから、気兼ねしないでね」
紗江に続き、樹は廊下を進んでいった。階段を上がってすぐのドアを、彼女は迷いなく開けた。
机とベッド、本棚が整然と並んでいる。可愛らしい雑貨が控えめに置かれていて、シンプルなのに、どこか洗練された空気があった。
ふと、物で溢れがちなユキナの部屋が頭に浮かぶ。その対比のせいか、紗江の部屋の無駄のなさが、余計に際立って見えた。
「狭いけど、ここ座って」
折り畳みの椅子が出される。机の椅子と並べると、確かに距離が近かった。
樹はそれを意識しながらも、考えないことにした。
「……じゃあ、やるか」
「うん」
問題集とノートを広げる。紗江がわからない場所を伝えると、樹の説明する低い声が静かに部屋に広がった。
「ここは――」
樹は視線を落としたまま、式の一部をなぞる。
「この公式そのままじゃなくて、一回こっちに変える」
「え、なんで?」
「この場合、条件がこっちに合うから」
「あ……ほんとだ」
紗江は息を漏らし、式を追った。
「で、ここで代入して――」
肩が触れる。樹は、その距離をわざと避ける方が不自然だと思った。
「……あ、できたかも」
紗江が言うと、樹は無言で赤ペンを手に取り、採点を始めた。
「うん。できてる」
樹の言葉に、紗江は少し嬉しそうに笑う。
「わかると、気持ちいいね」
「そうだな。だから数学は、割と好き」
樹はペンを置く。
「今日は、ありがとう。うちって言ったとき、来るか迷った?」
紗江に聞かれて、樹は少し間を置いて答えた。
「まあ……。そりゃ、どうしようかは考えた」
「そっか」
「有森、彼氏いんだろ」
「え?」
紗江が目を瞬かせる。
「だから、さすがに家に行くのはどうなんかなって思って――まあ、有森がいいなら、いいけど」
「あ……そっか。ごめん。私、彼氏と別れたの」
「え?」
「言えばよかったね」
紗江が言うと、樹は小さく息を吐いた。
「そうか」
「気を遣わせちゃってたんだね」
紗江がノートを差し出す。
「次はね、ここ見てほしい」
「ここも、さっきと同じ考え方でいける」
「あ、そっか。じゃあ一回自分でやってみる」
紗江がペンを動かし始めるのを、樹は何も言わずに見守った。
時間が、ゆっくりと進んでいく。風が窓を叩く音がした。
問題を一通り解き終え、樹のチェックも完了すると、紗江は小さく伸びをした。
「一旦、飲み物取ってくるね。大杉くん、アイスコーヒーのブラックでいい? 砂糖とかミルクいる?」
「ブラックで」
紗江は微笑んで頷くと、部屋を出た。ドアが閉まり、足音が遠ざかっていく。
さっきまで並んでいた場所に、まだ体温が残っている気がした。
紗江は彼氏と別れていた。その事実が、今ここにいることに、勉強以外の意味を持たせようとしてくる。
それでも、深く考えまいと努めた。
戻ってきた紗江の手には、二つのグラスがあった。
「はい」
差し出されたグラスにぶつかって、氷がカラン、と鳴る。
「ありがとう」
受け取る時、少しだけ指が触れた。
紗江は椅子を少し引き寄せて座り直すと、アイスカフェオレのグラスに口をつける。
静かな部屋の中で、喉の鳴る音と、グラスを置く小さな音だけがした。
彼女の視線は、こちらに残ったままだ。
「……そんな見んなよ」
樹は視線を外しながら言った。
「ふふ。つい見ちゃう。大杉くんが私の部屋にいるなんて変な感じ」
樹は、彼女の言葉の意図を探るのをやめ、思考を切る。
グラスに口をつけ、飲み込む。落ち着かせるための動作のはずなのに、それもうまく機能しなかった。
「大杉くんってさ」
「ん」
「ちゃんと、距離取るよね」
樹はグラスを持ったまま、紗江を見た。
「距離?」
「うん。踏み込まない距離」
「……そうか?」
紗江は穏やかに微笑み、頷いた。
「優しいよね」
「考えたことなかった」
視線を外した窓の外で、木の枝が揺さぶられるのが見えた。どんどん、風が強くなっている。
「……続き」
樹はノートを指先でトントンと叩いた。
「うん」
紗江は隣でペンを走らせている。触れそうで触れない肩に、樹の意識は引っ張られる。
「できた」
紗江が言うと、樹はノートを自分の方へ引き寄せた。癖のない綺麗な字を、黙って追う。見慣れたユキナの丸文字とは、まるで違った。
「お、全部合ってる」
「良かった。やっぱり、教え方上手だよね」
紗江は小さく笑った。
「有森が元々できるからだよ。飲み込み早い」
「ううん。わかりやすい。ありがとう先生」
その言葉に、樹の表情は一瞬だけ力が抜けたようにほどけた。片眉がわずかに上がり、ふっと笑った。
「あ、それ」
紗江は嬉しそうに言った。
「それ?」
「眉毛あげて笑うの、癖?」
「え、わかんねえ」
「その表情、いいなって――初めて話した時から思ってたの」
そう言って、樹の顔をまじまじと見つめる。
「……無意識」
樹は眉毛を押さえながら言うと、一瞬だけ視線を重ねて、すぐに逸らした。
紗江は樹の表情を確かめるように、ほんの少しだけ動きを止めた。
何も起こらないまま、時間だけが流れていく。外は、日が落ち始めていた。
紗江はそのまま距離を詰めた。
樹は動かない――動けなかった。
ノートに落としていた視線を、ゆっくりと上げると、紗江の目が、まっすぐこちらを見ている。
「……何」
「ごめん。こんなに近いと――なんだか目が離せなくて」
逃げ場がない距離で言われる。
樹は息を吐いた。何か言おうとしたが、言葉が出てこない。
静かだった。さっきまで気になっていた風の音も、もう耳に入ってこない。
紗江は、向かい合った形で、前に出る。膝が触れた。
彼女はじっとこちらを見ていた。
喉の奥で揺れるような呼吸だけが、ただ平静なわけではないことを漏らしている。
樹は無意識に、紗江の手元を見る。机の端に置かれた指先が、小さく動く。
それから、迷うように、樹の袖へ触れた。
「大杉くん」
呟くような声だった。
「……ん」
「さっき、距離取るって――」
そう言った彼女の表情は不安げだった。それでも、その瞳には芯があるようにも見えた。
「でもね、私は、大杉くんのこともっと知りたい。大杉くんは……いや、かな」
突然の問いに答えられないまま、樹は目の前の紗江を見る。
袖を掴む指先に、わずかに力が入る。その手は、小さく震えていた。
動けば触れる距離のまま、二人はその位置で止まっていた。
樹は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。唇に視線が行く。
紗江はその視線に気づくと、袖を引っ張った。
次の瞬間、樹の手が紗江の頬に伸びた。ほとんど無意識だった。
そのまま、引き寄せる。
唇が重なった。
触れるだけのつもりだった。確かめるような、一度きりで終わらせるはずだった。
けれど、紗江の指が、樹の袖を強く掴んで離さない。
それで、止まれなくなる。
驚くほど柔らかい紗江の唇に、脳がふわふわ浮くような感覚に支配された。
角度を変えて重ねる。さっきよりも深く、長く。
静かな部屋の中で、二人の息遣いが濃くなっていった。
樹は、紗江の肩に手をかけたまま、さらに距離を詰めた。樹の足の間に、紗江の両膝がすっぽりと収まる。
一度触れてしまえば、躊躇は消えた。どこまで許されるのかの線が曖昧になり、唇を離しても、すぐにまた重ねる。繰り返すたびに、間が短くなっていった。
紗江は抵抗しない。むしろ、顔を上げて、応えるように受け入れていた。
その反応が、余計に歯止めを失わせる。
指先に触れる体温も、近すぎる呼吸も、全部が混ざっていく。
窓の外は、すでに光を失っていた。
カーテンの隙間から入り込むわずかな街灯の明かりが、部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
さっきまでの整った空気は消えて、別の静けさが落ちていた。
その中で、机の上のスタンドライトに照らされた二人の影が、ノート上にかすかに重なって揺れた。
唇を離すと、紗江は言った。
「好きなの」
最近、彼女から寄せられる好意になんとなく気づいてはいた。樹が紗江を異性として意識していたこともまた、事実だった。
だからこそ、今日はのこのこ来るべきではなかった、と樹は後悔した。
「――有森」
樹は紗江の肩を掴み、身を離そうとした。
今ならまだ引き返せる。
「紗江、だよ」
紗江が自身の名を口にした途端、その目からポロポロと涙が溢れた。
「名前、呼んで」
泣き出した紗江を前に、樹の思考は止まった。
「さ……え」
乾いた声が喉の奥で掠れ、思ったように言葉にならなかった。
紗江は樹の首に腕を回し、再び彼に口付けた。
彼女の「その先」への意思を確信した。
キスをしながら紗江を抱きかかえると、そのすぐ先にあるベッドへ寝かせた。彼女に覆いかぶさる形で、もう一度キスをする。
遠くなる自意識の裏で、この期に及んで、ユキナの顔がチラついていた。
――クソ。どうにでもなれ。
紗江の部屋には、荒くなる息づかいと、衣服の擦れる音だけが響いていた。
紗江の熱を帯びた目に見つめられ、樹の中で何かが切れた。理性が一気に押し流される。
気がつけば夢中で求めていた。
濡れた音と甘く漏れる声の渦の中、現実も罪悪感も、全部ぐちゃぐちゃに混ざって、沈んでいく。
最中に浮かぶのは、あの朝の、ユキナと和人だった。あれは、完全に朝帰りだった。
――ユキもあいつと、こんなこと……。
幾度となく想像したはずのユキナの淫らな姿が、樹の頭の中で、初めて現実味を帯びていく。
今までと違うのは、彼女の相手は自分ではないということだった。
紗江の名を繰り返し呼びながら、ただひたすらに動いた。とにかく空っぽになりたかった。
腹の中に渦巻く黒い汚物を、今すぐ消化しなければ、完全に飲み込まれてしまう気がした。
次第に大きくなる声。乱れ、揺れる体。そんな彼女のすべてに没頭した。
頭の中の残像を消すには、それはちょうどよかった。




