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第38章

 ホームに降り立つと、朝の空気が頬をかすめた。


 改札を抜ける人波に混じりながら、ユキナと樹は駅を背に歩き出した。


 通学路の坂道には、制服姿の生徒たちが点々と連なっている。遠くで踏切の警報が鳴り、線路を渡る電車の音が街に残響を落とした。


「ねえ。明日数学の小テストあるんだけど、“これができれば大丈夫”って配られたプリント、全然わかんないの。今日提出の宿題なのに一問も解けなかった。たつのクラスって、このプリントもうやった?」


 樹が大きなあくびをしたところで、ユキナは一枚のプリントを見せた。


 樹は眠そうな目で、それを一瞥する。


「やった」


「よかった! この単元全然わかんなくて。自力で頑張ってみたけどマジで無理だったからさあ」


「小テストは俺のクラスも明日だけど。そのプリント返ってきたのは、今持ってる」


 ボックスリュックから、同じプリントを取り出した。


「これ写せよ」


「うん」


 ユキナはプリントを受け取った。


「でも、写すだけじゃ明日のテスト無理そうだから、夜教えて。今日はバイトないもんね?」


「あー……。バイトはねえけど、予定あるわ」


「そっか。じゃあ、これ借りとくね」


「やるよ。もう使わねえし」


「ありがと」


 ユキナは樹から受け取ったプリントを、自分のリュックにしまった。


「あ、そうだ。部室にカメラ置きに寄るから、学校着いたら先行って。放課後、部活あるの」


 ユキナは肩に下げたカメラを見せて楽しそうに言ったが、樹は前を見たまま返事をしなかった。

 覇気のない顔で、ずっと押し黙っている。


「たつ、眠いの?」


 ユキナは樹の顔を覗き込んで言った。


「ん……」


 曖昧に返ってくる。


「寝不足か。毎日バイトのあと勉強だもんね。じゃあ、そんなたつにこれをあげよう」


 ユキナは樹の右手を掴み、ポケットからミント味のタブレットケースを取り出した。彼の手のひらに、白い粒を二つ落とす。


「スーパーストロングー。目、覚めるよ」


 ユキナは樹を見上げてパッケージを見せ、にっこりと笑った。


 その瞬間、樹は自分の手に添えられたユキナの手を強く握った。


 ユキナが何か言うより早く、樹はその場にしゃがみ込み、俯いた額を、彼女の手の甲へそっと押し当てた。


「え……」


 思わず声が漏れる。


「……そんな眠い?」


「ユキ」


 掠れた声で名を呼ばれ、鼓動が速くなる。


「なに……?」


「行くなよ」


 絞り出すような、苦痛に満ちた声だった。

 握られたままの手が、小刻みに震えているのに気づく。


 樹はユキナの手に額を押し当てたまま、黙っている。


「どうしたの、大丈夫?」


 俯いているせいで、表情は見えない。


「行くなって、学校に? 行きたくないほど体調悪いなら、無理しないほうがいいよ。付き添うから、一旦帰ろ?」


 ユキナも、樹に目線を合わせるためにしゃがみ、顔を覗くようにしてそう言った。

 彼は少しだけ顔を上げ、目だけがこちらを捉えている。鋭い視線のようだが、すがるように、脆くも見えた。


 握ったままの手から、ゆっくりと力が抜けていく。


「ん……いい。これ食えばいける」


 樹は立ち上がると、手のひらのタブレットをそのまま口に放り込んだ。


 ユキナも立ち上がる。

 樹はもう、いつもの無表情だった。


「それ、薬でもなんでもないけど」


 心配そうに見上げるユキナの顔を、樹は両手で挟み、ぐっと押した。


「ふ……変な顔」


 つぶれた彼女の顔を見て笑う。


 けれどその目の奥には、深い悲しみが浮かんでいた。あの瞳だ。


「たつ……」


「眠すぎて一瞬頭バグっただけだ。行くぞ」


 そう言うと、樹は呆然と立ち尽くすユキナを置いて、先に行ってしまった。


「あ、ちょっと」


 少し遅れて、ユキナはその背を追う。


 頭上では雲が折り重なり、空の奥行きを消していた。光は鈍く滲み、風の向きも定まらない。雨を含んだような湿り気が、朝の空気にわずかに混ざっていた。


* * *


「大杉くん」


 樹が次の授業の教室へ向かっていると、紗江に後ろから声をかけられ、足を止める。


「わり、先行ってて」


 一緒にいた友人にそう告げると、紗江のほうへ向き直る。


「どうした?」


「この前話してた、また勉強を教えてもらうって話なんだけど……」


「ああ、今日だろ。覚えてる。前と同じく図書室だよな?」


「んーと。そのことなんだけど……私の家でもいい?」


「……は?」


「誰もいないから、捗ると思うの」


「いや……図書室でも普通に捗ると思うけど」


「でも、閉館時間とか気にしなきゃいけないから、この前も結局全部はできなかったりしたから――落ち着いて勉強するなら、うちかなって」


 確かに、図書室で勉強しても、閉館時間になると途中で切り上げることが多かった。そう考えると、紗江の言い分もわからなくはない。


「学校前のバス停から五つ目なの。もちろん来てもらうからには交通費出すね」


「うーん……。まあ。わかった」


「よかった。じゃあ、放課後昇降口で」


「ああ」


 ほっとしたような表情を浮かべ、紗江は駆け足で去っていった。


 樹はその場に残ったまま、しばらく動かなかった。後ろから来た生徒に肩を軽くぶつけられ、ようやく歩き出す。


 教室に入ると、すでに何人かが席についていた。机に教科書とペンケースを置き、そのまま椅子に腰を下ろす。机に肘をつき、指先で額を押さえた。


 今朝、自分の口から出た言葉が浮かぶ。


――行くなよ。


「……は」


 小さく息が漏れる。

 何を言ってんだ、と自分で思う。意味もわからない言葉を、あんな震えた声で。戸惑ったユキナの表情を思い出し、胸が軋む。


 隣の席の男子が椅子を引く音がして、樹は顔を上げた。


「お前、今日やばくね? 顔死んでるぞ」


 サッカー部の外畑大翔(そとはたひろと)だ。先ほど、廊下で紗江に会ったときに先に行ってもらった。


「ん、寝不足」


「お前それ最近毎日言ってるだろ」


 軽く笑われる。


 樹はそれに適当に笑い返した。


 チャイムが鳴り、教師が入ってくる。授業が始まるが、板書の文字はほとんど頭に入ってこない。


 ノートは開いている。ペンも持っている。けれど、手はほとんど動かない。


 ただ、時間だけが進んでいく。


 深呼吸して、目を閉じる。


 幼い自分が、誰かに手を伸ばしている。髪の長い、すらりとした後ろ姿。その人は、一瞬だけ足を止めた。

 振り返りそうで――振り返らない。


 必死に声をかけた。


「待って」


「どこに行くの?」


 一生懸命、叫ぶ。


「待ってよ母さん」


 そう。父にも、光樹にさえ言っていなかった。でも、彼女はいなくなってから一度だけ、家に帰ってきたことがあった。

 

 小学校に入学したての春だった。給食を食べて下校し、ユキナと公園で遊ぶために、ランドセルを置きに家へ戻った時だった。


 リビングのドアを開けると、そこには母がいた。半年ぶりに見る母は痩せていて、髪はぼさぼさだった。棚の引き出しを開け、大きなカバンに何かを詰め込んでいるところで目が合った。


 慌てて出て行こうとする母の背中へ、一心不乱に叫び続けた。追いかけて、服を掴んで、泣き叫んだ。


 でも彼女は、一度も振り向くことはなかった。


「バイバイ」


 ドアが、スローモーションのように閉まっていく。


 幼い自分は泣き叫んでいる。

 自分の存在が、きっと母を引き留められると思った。呼び続ければ、きっと戻って来てくれると。


「母さん、母さん!」


オ イ テ イ カ ナ イ デ !


 ハッとして目を開けると、淡々と授業は進んでいる。時計を見ると、五分ほどしか経っていなかった。


「おい、お前、汗」


 通路を挟んだ隣から、外畑が小声で言った。


「マジで大丈夫かよ」


「やべ……寝てた」


「珍しいな。ほら、これ使えよ」


 外畑は折り畳まれたスポーツタオルを渡してきた。


「悪い……」


 樹はそれを受け取ると、額の汗を拭う。


「気にすんな。それ昨日の部活で使って洗濯してないやつだし」


「おまっ……!」


 思わず大きな声が出る。ハッとした頃には遅かった。教師がギロリとこちらを見ている。


「大杉、立て。31ページ。全文読んでみろ」


 樹は教科書に視線を落とすと、立ち上がる。


沛公(はいこう)旦日(たんじつ)百余騎(ひゃくよき)(したが)えて(きた)りて項王(こうおう)(まみ)ゆ――」


 長い漢文を、淀みなく読む。


「……座れ。大杉、集中しろよ」


「はい」


 外畑を睨むと、イタズラな笑顔を浮かべていた。


* * *


 昼休みの部室で、ユキナは一人プリントを写していた。室内の静けさとは裏腹に、外の廊下からは賑やかな笑い声が遠く響いてくる。


 扉が軽く開き、和人が顔をのぞかせた。


「あれ。和人、どうしたの?」


「ネガ確認したくて――ユキナは、勉強中?」


 和人が聞くと、ユキナが笑って答えた。


「まあ、勉強てか、丸写し中?」


「……褒めようと思ったのに」


 そう言って、和人は笑った。


「教室だと友達と話しちゃうから。ここで次の授業までにやらなきゃいけないプリント写そうと思って、顧問に鍵借りて来たの」


 ユキナが言うと、和人は頷いた。


「俺も今鍵取りに行ったら、既にユキナが持ってったって聞いたから」


「このプリント自力じゃ無理だから写すしかなくて」


「ふーん。わかんないのどこ?」


 和人はユキナの隣にパイプ椅子を移動させて座った。


「ここ、公式当てはめてもよくわかんなくて。答えを写してはみたものの、なんでこの答えになるのかさっぱり」


「これ、幼馴染の?」


 和人は、プリントの名前を見て言う。


「あ、うん……。そう」


「満点。頭いいんだ」


 和人は感心したように言った。


「……見かけによらずね」


「俺、割と数学得意だよ。教えようか」


「いいの? 助かる。教えてください!」


 ユキナが神を崇めるような眼差しを和人に向けると、彼の目じりがやさしくほどけた。


 和人は制服のポケットからメガネケースを出し、メガネをかけた。


「和人、メガネしてるの初めて見た。目、悪かったの?」


 ユキナは和人の顔をまじまじと見つめた。


「そこまで悪くはないけど、黒板が見えにくいから授業中はかけてるんだ。そっからなんとなく、勉強する時はかける癖がついた」


「似合うね! 超エリートって感じ」


「だろ」


 和人は、メガネの眉間の部分を指で持ち上げ、わざとらしく優等生ぶってみせた。


「あはは! ぽいぽい。私、メガネ似合わないから憧れるな」


「そうかな。似合いそうだけどな」


 和人は頬杖をついて、隣にいるユキナの顔を見た。


「でも、中学の頃、一時期伊達眼鏡かけてくるのが流行ってね。私も流行りに乗ってみたら、みんなに似合わないって笑われてさあ。赤縁のやつ」


 クスクス笑いながらユキナは言った。


「赤縁だったからじゃない? 難易度高いよ」


「そっかなぁ。ちょっと貸してー」


 ユキナは両手で和人のメガネを取り、自分にかけた。


「どおー?」


 無邪気にそう尋ねたユキナを、和人は黙ったまま見つめていた。


「えっ。やっぱ変?」


 和人は首を横に振る。


「すごく可愛い」


「……ありがとう」


 突然真剣な眼差しで見つめられ、ユキナは動揺した。


「ユキナは、何しても可愛いよ」


 和人はそう言うと、熱のこもった眼差しで、そっとユキナがかけていたメガネを外した。


 数秒、視線が重なる。


 和人はユキナの肩に手を添えた。


「……」


 ユキナが真っ赤な顔で硬直しているのを見て、和人は我に返ったように言った。


「………勉強しようか」


 肩に添えた手を離し、パイプ椅子を直すように、少し距離を空けた。


 手に持っていたメガネをかけ直すと、平然とした声で言った。


「――で、どこがわかんないんだっけ」


「あ、えと……ここ」


 和人は淡々と教えてくれた。


 ユキナはその説明を聞きながら、心臓の音が隣の和人に伝わらないよう、必死で祈っていた。

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