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第37章

 車から降りてくるユキナを見た日。

 ソファでうたた寝していた樹は、光樹の声で目が覚めた。


「おい、たつ」


 朧げな意識の中、目を開く。


「大丈夫かよ」


 いつも楽天的な光樹が、珍しく焦った様子で樹の肩を叩き、顔を覗き込んでいた。

 バイトから帰って、ソファで少し休むつもりが、いつの間にか眠ってしまったらしい。


「お前、かなりうなされてたぞ」


 気づけば、心臓がバクバク動いていて、体はぐっしょりと汗ばんでいる。


「ん……」


 樹は体を起こし、無意識にキッチンを見た。今日は洗い物と洗濯の担当の日だった。


「洗い物も洗濯も終わった。お前、バイトと勉強アホみてえに詰め込みすぎなんだよバカ」


 アホだのバカだのと並べている割に、その口調には呆れと心配の色が滲んでいた。


「しばらく家のことは俺と親父で分担するから、お前は少し休め」


「……悪い」


 まだ、胸の奥に、重い何かが残っている感覚があった。


「シャワー入ったらさっさと寝ろ」


* * *


 シャワーを浴びて自室に入る。カーテンは、あれからずっと閉められたままだった。

 自室の窓を開ける気にはなれず、タバコは別室のベランダで吸うことにした。


 うなされていた理由は、覚えている。

 遠いあの日の夢を見た。それも鮮明に。


 東和人と朝帰りするユキナを見て、そのパンドラの箱が開かれてしまった。何年も長いこと封印していたその記憶が。


 ヒステリックな金切り声。

 

 それが、自分の覚えている一番最後の母の記憶とは、なんて残酷なのだろうと、苦笑する。


 それはものすごく深い夜だったような気もするし、本当はそうでもなかったのかもしれない。

 なんせ、6歳の――保育園の頃の記憶だ。


 とにかく、その夜、樹と光樹が眠っている二階の部屋まで届くぐらいの大声で、階下にいる母は何か喚き散らしていた。それで目が覚めた。


 夫婦喧嘩は珍しいことではなかった。でも、この日は特別激しかったのではっきりと覚えている。


 樹は布団に潜り込み、耳を塞いだ。


 それでも、階下から突き上げてくる声は壁や床を伝って、怒鳴り声の振動が布団の中まで響いてくる。


 内容まではよく聞き取れない。けれど、母が怒っていることだけははっきりと分かった。声はいつもより甲高く、何かが割れるような音も、時折混ざった。


 皿か、コップか、あるいは何か別の物か。


 樹は目を閉じたまま、声が遠くなるのを待った。

 こういう夜は、時間がどろどろに溶けたように、じわじわ、ゆっくり流れていく。


 隣の部屋にいる光樹は、起きているのだろうか。怒号の響く暗闇を抜けて、それを確かめにいく勇気はなかった。


 階下で、父の低い声が一度だけ響いた。

 それに被せるように、また母の声が鋭く跳ね上がる。


 耳を塞いでいる指先に、力が入る。


 怒鳴り声は、だんだん言葉にならなくなっていった。

 泣いているのか、叫んでいるのか、その区別もつかない。

 この世の全ての苦しみと悲しみをごちゃ混ぜにしたような、恐ろしい声だった。


 樹は布団の中でうずくまり、何度も同じことを考えていた。


 寝ていれば終わる。

 起きていなければ終わる。

 だから目を閉じて、早く眠ろう。


 ここで、現在に記憶が引き戻された。先程、光樹に起こされた。


 正直言って、本当に助かった。あの頃と全く同じ、暗くて孤独な気持ちが押し寄せてきて、苦しくて苦しくて、誰かに助けて欲しかった。目覚めたとき、目の前に光樹がいて、心底ほっとした。


 今思えば、子供じみていて、恥ずかしくなる。


 夢はそこで途切れたが、このあとの実際の出来事も、樹の記憶に鮮明に残っている。


 あの夜、しばらくして、家の中が急に静かになった。

 それまでの声が嘘みたいに、何も聞こえない。


 静かすぎて、逆に怖かった。


 樹は布団から少しだけ顔を出した。布団に籠った熱気が抜け、ひんやりとした空気が気持ちよかった。樹は、大きく息を吸い込んだ。


 カーテンから漏れた街灯の薄明かりで、窓だけがぼんやりと浮かんで見えた。


――ユキ、寝てるだろうな。


 鼓動はまだ落ち着かなかった。でも、気持ちよさそうに大きな口を開けて眠るユキナの顔を思い浮かべて、少しだけ笑った。


 耳を澄ませてみても、相変わらず階下からは何の音もしない。心細い。何度も、隣の光樹の部屋に行こうか迷った。でもやっぱり、布団から出る勇気が出ない。


 寝返りを打つと、柔らかい何かが額に触れた。

 暗い中で目を凝らすと、目の前にはフェルトでユキナが作ったクマがいた。昼間に遊びに来たユキナが、手芸クラブに入ったサヤカに裁縫を教わったと言って、嬉しそうにそれを差し出して来た。


「僕はベア太郎だぞ」


 ユキナがクマを動かしながら、低い声でそう言っていたことを、樹は思い出した。


「変な名前」


 樹がそう言って笑うと、ユキナも笑った。


 樹の持っていた恐竜のおもちゃにベア太郎を跨らせて、二人で大笑いして遊んだ。夕方、明日もベア太郎で遊ぼうと約束をしてユキナは帰って行った。


 樹はベア太郎を手に取り、暗がりに慣れてきた目で、じっと見つめた。


 縫い目は荒く、ところどころ隙間が開きすぎて綿が出ている。ボタンの目は左右の位置がチグハグで、縫い付けられた糸の口は歪んだ微笑みを浮かべている。


 間の抜けたその顔を見ていると、鼓動が落ち着いていくのを感じた。


 目を閉じると、ベア太郎が動き出した。床に転がっていたブラキオサウルスのおもちゃに跨り、部屋中を飛び跳ねていた。


 気がつけば樹は大きな草原にいて、ユキナと手を繋いでいた。「こっちこっち」と声のする方には、たつきと同じくらいの大きさになったベア太郎が、大きなブラキオサウルスに乗って手招きしている。樹は真っ先にそれに飛び乗り、続いてユキナの手を引いて、彼女もワクワクとした表情で跨った。


 二人で目配せをして、「いひひっ」と笑った。


「しっかり捕まれよ!」


 ベア太郎が言うと、ブラキオサウルスは風を切って走り出した。


 どこまでも続く大草原と青い空の中、ユキナとはしゃいでいると、崖が見えて来た。


「落ちるぞ!」


 声をかけても、ベア太郎は気にしない。ブラキオサウルスのスピードは、むしろ加速した。


「わー!!」


 樹とユキナはぎゅっと目を瞑った――

 瞬間、体がふわりと軽くなる。


 恐る恐る目を開けると同時に、ユキナの声がした。


「わあ! 飛んでる!」


 樹たちは飛んでいた。ブラキオサウルスの背に、真っ白な翼が生えていた。

 

「もっと遠くへ行ってみよう!」


 樹が叫んだ時、体が揺さぶられる感覚で、目が覚めた。


「たつ、公園行かね? サッカーしよう」


 目の前に、光樹の顔があった。そう。あの日も、光樹に起こされた。今と違うのは、あの日は起こされてもありがたくなかったことくらいだ。


「みつ……?」


 光樹はサッカーボールを持っていた。


「さっき起きたら誰もいねえの。どうせ学校行ってももう遅刻だし、サボろうぜ」


「母さんは?」


 樹は昨晩のことを思い出し、不安になる。


「知らねえ」


 光樹は無表情で答えた。


 樹は、自身の手に、ベア太郎があることに気づき、ぼんやりとそれを見つめた。


――楽しかったのにな。夢だったんだ。


「公園、ユキもいる?」


 樹は光樹に聞いた。公園に遊びにいくときは、いつもサヤカとユキナがいた。


「いない。今ユキは幼稚園で、サヤは学校だもん」


 光樹の言葉を聞くと、樹はベッドから出た。


「俺、保育園行く」


 光樹とサヤカは小学四年生で、ユキナはバスで幼稚園に通っていた。樹は近所の保育園に、毎朝出勤前の母に送られるのが日課だった。


「無理だよ。親と行かないと預かってくれねえもん。父さんは多分朝早くに仕事行ったっぽいし、そのあと母さんが出かけていく音したけど、どこ行ったかわかんねえし」


 光樹が言うと、樹は俯いて黙りこくった。


「サボれるからラッキーじゃん、お前の好きな遊具ある公園行こう。な? ほら、着替えてこいよ」


 光樹は樹の肩をポン、と叩いた。


* * *


 外に出ると、昨夜の出来事なんて、おかまいなしに晴れていた。

 

 ぼんやりとそれを見上げる樹の手には、まだベア太郎が握られている。


「それ、持ってくのか?」


 玄関ドアに鍵をかけながら振り返った光樹が、少しだけ眉をひそめる。


「……うん」


 樹は小さく頷いた。


「ふっふっふ。これを見ろ」


 自慢げに見せられたのは、フェルトで作られた赤いハートだった。紐がついていて、家の鍵に括り付けられていた。


「何それ」


「サヤがくれた。ハートだぞ、ハート。あいつ本当俺のこと好きだよなー」


「……ベア太郎の方がいい」


「ぶはっ。そいつベア太郎っていうの? 変な名前」


 光樹は吹き出した。


 公園に着くと、ブランコが風に揺れていた。

 誰もいない公園に、鉄の軋む音だけが、やけに大きく響いている。


 いつもとは違う静けさに、樹は怖くなった。


「ほら」


 光樹はボールを軽く蹴ってよこす。反応が遅れて、足元でボールを止めた。


「……やんねえの?」


「やる」


 そう言ったものの、体はうまく動かなかった。ボールを蹴っても、いつものように楽しくならない。樹は俯いた。


 さっきまで見ていた夢の感触が、まだ体に残っている。


 広い草原も、高い空も、ユキナの手の温もりも――


 全部、ここにはない。


「たつ」


 光樹の声が、少し低くなる。


「お前さ」


 樹は顔を上げた。


 光樹は、ボールを足元で止めたまま、じっとこちらを見ている。


「昨日の夜、起きてたか?」


 その言葉に、鼓動が早くなる。頭の奥で母の金切り声が聞こえた気がした。


「……」


 答えられないまま黙りこくった樹に、光樹はそれ以上は聞かなかった。


「いいや」


 短くそう言って、ボールを強く蹴る。

 それが樹の横を通り過ぎ、フェンスに当たって、乾いた音を立てた。


「サッカーしよ」


 ただ、そうするしかない、という響きだった。


 樹は、跳ね返って転がってきたボールをもう一度見る。


 そして、小さく息を吸った。


「……うん」


 ベア太郎をベンチの上にそっと置く。


 少しだけ迷ってから、位置を直して、ちゃんと座らせた。


 その歪んだ笑顔が、こちらを見ている気がした。


 樹は走り出し、ボールを追いかける。

 足を動かしている間だけ、何も考えなくて済んだ。


 光樹の声が飛ぶ。


(おせ)えぞのろま!」


「うるさい!」


 言い返す声が、思ったよりもちゃんと出た。


 風が頬に当たる。


 体が熱くなる。


 胸のざわめきや不安が、少しずつ落ち着いていく。


 そのまま、何もなかったみたいに母が帰って来てくれる気がした。


 ベンチの上のベア太郎は、じっとその様子を見ていた。

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