第36章
「親になんて言ってある? 家の前に車着けて大丈夫?」
自宅の近くまで来たとき、和人が聞いた。
「あ、うん。紗江んち泊まるって言ってあるの。どっちみち、パパは出張で先週からいなくて、ママとお姉ちゃんは今日も出勤だから、家には誰もいないんだ。だから、家の前でお願いします」
「そっか……嘘つかせることになっちゃったな」
「ううん。私が面倒だからそうしただけ。色々話せてよかった。和人は思ってた以上に素敵な人ってわかったよ」
微笑むユキナを見て、和人は言った。
「あんまハードル上げんなよ。……ていうか、期待しちゃうけど、そんなこと言われたら」
真正面から見つめられ、ユキナは言葉に詰まる。
「ま、幻滅されないように頑張るよ」
和人は小さく笑った。
「幻滅なんて。絶対にしない」
「俺のことは気にせず、そのままでいて。ユキナの気持ちの整理がつくまで待ってるから」
「うん。ありがとう」
和人は運転席のドアを開け、後部座席から荷物を降ろすために、車を降りた。
* * *
午前九時。樹は十時からのアルバイトに向かうため、家を出た。
門の前でふと足を止める。靴紐が解けていた。
屈み込んで結び直しながら、昨日のことを思い出す。ユキナの部屋は、一度も灯りがつかなかった。
彼女はたまに、テレビをつけたままリビングで寝てしまうことがある。きっと、今回もそんなとこだろう、と思った。
無意識に、ユキナの行動を追っている自分に気づく。
「そろそろやべえな……俺」
小さく呟いた。
寝ても覚めても、ユキナのことばかりが浮かぶ。うんざりするほどに。
靴紐を結び終えたとき、エンジンの音がした。
門の生け垣、1mほどのエレガンテシマの隙間から、見慣れない車が見えた。
助手席のドアが開き、ユキナが降りてくる。
車は、ユキナの家のものではない。
続いて目に入ったのは――
――東和人だ。
彼はリュックをユキナに手渡した。旅行にも使えそうな、大きめのものだった。
「本当にありがとう、超楽しかった!」
ユキナの声が、はっきりと聞こえた。
「俺も」
「また、色々教えてね」
「もちろん。ユキナ寝不足だろうし、今からしっかり寝ろよ」
「うん、ありがとう。和人こそゆっくり休んでね。気をつけて」
車が走り去ったあとも、ユキナはしばらく手を振っていた。
胸の奥がざわつく。
ユキナが、ふいに振り返った。視線は樹の家へ向いている。
その視線を追うと、二階の窓――自分の部屋だった。
カーテンは閉じたままだった。昨日バイトから帰ったのは夜遅く、シャワーを浴びてから、電気もつけずにそのままベッドに倒れ込んだ。
靴紐を握ったまま動けずにいた。声をかける気はない。けれど、目を逸らすこともできない。
数メートル先。ユキナはまだそこに立っている。
風に揺れる髪を片手で押さえながら、まだ窓を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
門を開け、家の中へ消えていく。
姿が見えなくなっても、樹は立つことができなかった。
さっきまで確かにあった気配だけが、空気の中に残っている。
体が鉛みたいに重く、地面に縫い止められているかのようだった。
――朝まで一緒にいた。
――あいつの車で帰ってきた。
断片だけが、考えたくもない形に勝手に繋がっていく。
樹は顔を歪め、強く目を閉じた。
手のひらのわずかな痛みが意識を引き戻した。握りしめた拳の爪が食い込んでいる。
バイトの時間だ。いつも通り、店に行って、いつも通り働くだけだ。それ以上のことを考える必要はない。
足を踏み出す。
進んでもなお、意識の一部は後ろに引き戻されたままだった。
幼い頃の、思い出したくない出来事が脳裏をよぎる感覚がした。
呼吸が乱れ、耳を塞ぐ。古い記憶の蓋がわずかに開き、誰かの顔が浮かびそうになる。
「あー……」
樹は、ワイヤレスイヤホンを耳につける。大音量のビートが、全ての思考を遮る。
視界がわずかに歪んで、地面の感触が遠のく。自分がどこを歩いているのかさえわからなかった。
それでもその日は、ちゃんとシフトをこなして帰宅した。
客に仕事が早いと褒められて、そのおかげで店長も機嫌がよかった。
――俺はただ、いつもと同じ日常を送るだけだ。




