第35話
翌朝、和人からメッセージが届いた。
『おはよう 起きてる?』
『おはよう 起きてるよ』
『今からそっち行く』
『うん』
ノックの音がして、ドアを開ける。
「おはよう」
そう言った和人は、いつもの穏やかな表情だった。
「おはよ……」
ユキナは、かすれた声で返した。ほとんど眠れていない頭が重く、視界がわずかに滲む。
「今ネット見たら、高速もう開通してるから、早めに帰れそうだよ」
「あ、そうなんだ。よかった」
短く答えると、和人は紙袋を軽く持ち上げた。
「近くに朝からやってるパン屋見つけたから、適当に買ってきた」
紙袋を受け取る。ほのかな温もりが指先から伝わった。
テーブルに広げると、焼きたての匂いがふわりと立ちのぼり、冷えた室内にゆっくりと広がっていく。
「ユキナ好きなの選んでいいよ」
「えーと……これとこれ。美味しそう」
チョコチップメロンパンとカスタードコロネを取る。
和人は小さく笑った。
「やっぱその二つか。ほんと甘いの好きだな」
言いながら、紙袋からパンを取る。
「でも……そのソーセージのやつも気になる」
視線がそちらに寄るのを見て、和人はククッと喉で笑った。
「じゃあ、分けよ」
「やった。私のも、味見する?」
「いや。見てるだけで胸やけする」
肩をすくめる和人に、ユキナは笑った。
「よかった」
「聞いといてそれかよ」
和人は思わず吹き出す。
「だって、もらうなら一応聞かないと、食いしん坊みたいじゃん」
「その理屈がもう食いしん坊だろ」
「あはは、そっか」
張りつめていた緊張が、少しずつ緩んでいく。
窓の外には朝靄が残り、温泉街はまだ静まり返っている。鳥のさえずりだけがかすかに響いていた。
「いくらだった? パン」
「ああ、いいよ。こんくらい」
和人は胡座のまま答える。
「昨日もいろいろ出してもらってるし……。あのアトリエのカフェ代も体験料も、お昼のピザも。この旅館だって私しか泊まってないのに――それに、ガソリン代も受け取ってくれなかった。せめてこのパン代は、払わせてよ」
布団はすでに畳まれ、部屋の中央が広く空いている。卓の上では二つの湯のみから湯気が立ち上っていた。
「全部、俺がしたくてしてるだけだから。ユキナは気にしなくていいよ。バイト代もそれなりにあるし」
「……ありがとう。いつか絶対お返しさせてね」
和人は微笑んだ。
「ユキナ、ちょっと疲れてる顔してる。寝れなかった?」
障子越しの朝の光が、部屋の隅まで淡く広がっていた。
「あんまり……」
「大丈夫か?」
「和人は?」
「おかげさまで、ぐっすり」
変わらない調子だった。そのことに、わずかに救われる。
パンを食べ終え、カードキーを返却する。
車に乗り込むと、まだエンジンをかけていない車内に静けさが満ちていた。
「ねえ」
「ん?」
「昨日言ってたこと、本当?」
エンジンに伸ばしかけた和人の手が止まる。
「昨日?」
「私のこと……好きな子って」
「ああ」
思い出したように頷き、ハンドルに腕を重ね、その上に頬を預ける。
そこに迷いは見えなかった。
「本当だよ」
ユキナの胸が強く鳴る。
「それは、その……」
言葉が喉の奥でつかえて、うまく出てこなかった。
和人は体ごと、ユキナの方へ向き直る。
「俺は、ユキナのことが好きで、彼女になってほしいと思ってる」
力みもためらいもない、ただ、まっすぐに視線を向けて彼は言った。
ユキナは目を見開いたまま、動けずにいた。
「あれ、そんな驚く? 俺、結構わかりやすかったと思うけど」
ユキナは、首を強く横に振る。
「和人、いつも余裕があって優しいから……後輩を可愛がる先輩って感じだと思ってて……」
「部活の一環とはいえ、好きじゃなきゃ二人でドライブなんて行かないよ」
「いつから……? 私のどこが……」
「最初のほうから。どこがって言われると、全部って言いたくなるな」
和人は少し考えてから続ける。
「でも、素直で可愛いところが一番好き」
体の奥から熱が上がる。
「表情がくるくる変わるとこ、ずっと見てたいなって思う」
思わず両手で顔を覆う。
「可愛いな。そういうとこだよ」
「和人って、本当にストレートだよね……」
手のひらで顔を仰ぎながら言う。
「言いたいときに言わないと、後悔するから」
穏やかな口調だったが、ユキナははっとする。
その言葉に、あの日彼が話してくれた過去がふと重なる。
この人の、内側から滲むような優しさの源に、触れた気がした。
「ユキナはさ、あの幼馴染のことが好きなんだろ」
「え?」
心臓が跳ねる。
「見てたらわかるよ。前、朝校門で会った時に幼馴染だって言ってたけど、あれはそれ以上の距離感だったよ」
和人は窓の外へ視線を向ける。
「あのラクガキの件も、その人のことだろ? だから、ちゃんと気持ち伝えるのは、まだ先にしようと思ってた。でも昨日は緊急事態だったからな」
さらりと言う和人に、ユキナは視線を落とす。
「ごめん……」
「いや、謝るのは俺だよ。急に一人にしてごめんな」
「ううん」
言葉を探し、俯く。
まず浮かんだのは、和人のことだった。
「和人といると、楽しいの。安心するし……もっと知りたいって思う」
初めて口に出して、途端に現実味を帯びる。
「でも、和人の言う通り、ずっとたつのこと好きなんだって思ってた。でも最近、それもわからなくなってきて……家族みたいな気持ちなのかもって思う時もあって」
視線を落とす。
「今、頭の中ごちゃごちゃで……自分でもよくわかってない状態なの。曖昧なことしか言えなくて、私――」
「大丈夫。今すぐ答えなんていらないよ。整理ついてからでいい。可能性あるってわかっただけでも十分。昨日の感じだと、完全に脈ないと思ってたし」
「そんなことない……!」
思わず強く言う。
「昨日はね、和人がいなくなってから、自分の無神経さに気づいたの。はっきりしない気持ちのままなのに、本当に軽率だった。でも、天秤にかけてるとかじゃなくて……」
「わかってるよ」
受け止めるような声だった。
「昨日はそれで眠れなかった?」
「うん……」
「ユキナは、優しいな。悩ませてごめんな」
軽く背中を叩く。
「俺の気持ちは気にせず、今まで通りでいいから」
――違う。優しいわけじゃない。
「じゃあ、出発するけど、ユキナは家に着くまで寝てて」
エンジンがかかる。
和人の優しさに守られながら、樹と過ごしてきた時間も、簡単に手放すことができない。
どちらも抱えたままの自分が、ひどく曖昧で、どうしようもなく嫌だった。




