第34章
フロントガラスの向こうでは、赤い光が川のように連なり、夜気にぼんやりと揺れていた。
和人の車も、その流れに溶け込みながら、テールランプを断続的に灯している。車内には、音量の絞られた曲が、ユキナの規則正しい寝息よりもさらにかすかに漂っていた。
できることなら、このまま眠らせてやりたかった。だが、状況がそれを許さない。
「ユキナ、起きて」
和人はそっと声をかけ、肩に触れる。
「ん……。ごめん。私、寝てた……」
「いや、寝ててよかったんだけど――事故で高速封鎖になってて。今は下道走ってるけど、こっちもかなり渋滞してる。到着、恐らく深夜になると思う」
「私は、全然大丈夫だけど……」
まだ意識の輪郭がぼやけたまま、ユキナは言葉を返す。
「心配するだろうし、今のうちに親に電話しといた方がいいよ。必要なら、俺が事情説明して、謝るから」
そう言いながら、和人はスピーカーの音量を完全に落とした。
「え? いいよそんな! 和人のせいじゃないし。うちの親なら大丈夫、遅くなるってメッセージ残しとくだけで十分」
「でも電話の方が――」
「和人が謝る必要は全くないもん。それに、友達と遊ぶとしか伝えてないから、男の人が電話に出たら、逆に混乱するかも」
「ごめんな、もっと早めに出とくんだった」
「てか、私のことより。和人の方が絶対疲れてるよね。眠くない?」
「や、大丈夫。めっちゃガム食うし」
和人は運転席脇のボトルに手を突っ込み、粒ガムをひと掴みして口に放り込む。
「えっ。そんなに必要なんて絶対やばい」
ボリボリと音を立てて頬張る和人に、ユキナは慌てる。
そんな彼女の様子を見て、和人は笑って返す。
「冗談だよ。心配しないで。最後まで責任持って送り届けるよ。親に遅くなることちゃんと連絡したら、また寝てて」
一日を共に過ごし、ユキナは何度も彼の気遣いに触れていた。
自然体のまま、途切れることのない配慮。そこには打算も誇示もない。
これまでに出会ったどの人間とも異なる存在だと、ユキナは思った。
「ねえ、今調べてたんだけどね、この先に旅館があるよ」
「ん……?」
「宿検索アプリで見てたんだけど、今夜キャンセル出たから、一室半額になってるの。ちょうどこの先にあるみたい」
「いや、だから俺がちゃんと送るって。大丈夫」
「早朝から長距離運転してくれて、現地では私のカメラまで持って、あんな長い階段登り降りした上に、深夜まで運転なんて――和人、疲れて死んじゃうよ」
和人は息を吐いた。
「俺体力ある方だし、そのくらいで死にはしないよ。でも、よく考えたらそんな状況のやつに命預けたくないよな」
「ううん、そうじゃなくて、和人に休んでもらいたいの」
「親、心配するよ」
「紗江の家に泊まるってことにすれば大丈夫。よくあるし」
「うーん……じゃあ、ユキナがその旅館に泊まりなよ。俺、駐車場で車で寝るし」
「え? そんなの疲れ取れないよ。定員4人の部屋が空いてるみたいだから、大丈夫だよ?」
スマートフォンの画面が差し出される。
「全然大丈夫じゃねえだろ」
和人の声は低く、語気が強まる。
ユキナはその様子に、わずかに身をすくめる。驚いた顔をしている彼女に、和人は呆れを含んだ視線を向けた。
「あのさユキナ。男と2人で旅館泊まるとか、大丈夫な状況じゃないのは、さすがにわかるだろ? もう少し警戒心持った方がいいよ」
「でも……男って言うけど和人だもん。私なら、大丈夫だよ」
彼女が言い切ったことに、和人は絶句した。
それが、何をされてもいいという意味ではないことはわかっていた。
何もされないと信じている方の“大丈夫”だ。
そう、忠告は、まるで響いていなかった。
「ねえ、もう予約しちゃったよ」
ユキナは言いながらスマホを見せる。
「は……。いや、でも、当日のこんなに直前なんか普通ネットからは予約できないだろ……」
眉を寄せながらも、『予約確定』の表示を確認した瞬間、和人は脱力する。
ハンドルに額を預け、大きなため息をついた。
苛立ちと、諦め。
「……じゃ、そこの住所教えて」
苦笑に近い声が漏れた。
* * *
山間を抜ける国道沿いに、その旅館はあった。
駐車場に着くと、建物の窓という窓から柔らかな明かりが漏れているのが見えた。
木造二階建てのその古い宿の玄関をくぐると、畳の匂いと、わずかに硫黄を含んだ湿った空気が鼻を掠めた。
案内された和室は八畳ほどで、床の間と小さな縁側があり、障子の向こうには闇に沈んだ庭木の影が揺れていた。
急遽拾った宿にしては、落ち着いた空間だった。
「せっかくだし温泉入ってくるね。さっき見たら、ここの温泉口コミ良かったから楽しみ。部屋にアメニティほとんど揃ってるし、ここにして良かった」
「いってらっしゃい」
「和人は、温泉行かないの?」
「俺は部屋のシャワーでいいや」
「そっか」
「たくさん歩いたけど、ユキナ足疲れてない? 風呂場で転ぶなよ」
「あはは! 和人、お父さんみたい。じゃあ行ってくるね」
ユキナは笑顔のまま部屋を出ていった。
「……お父さん、かよ」
和人は呟き、座椅子に腰を下ろす。
深く息を吸い、ゆっくりと吐く。
布団は二組、逃げ場のない距離で並べて敷かれている。
「どうすんだよこれ……」
天井を仰ぎ、またため息が漏れる。
気持ちを落ち着けようと、浴室でシャワーを浴びる。
ユキナと旅館に来ている。
そして、今、シャワーを浴びている。
――マジで何やってんだ俺。
浴衣に着替えるのはやめ、再び私服に着替える。しばらくして戻ってきたユキナは浴衣姿で、頬を上気させていた。
「ただいま。温泉すっごくよかったよ、お肌ツルツル」
「おかえり。良かったな」
和人はスマホに視線を落としたまま、短く返した。
「あ、ちゃんとお布団離すから、私のことは気にせずゆっくり寝てね。私の分の荷物持ってくれたり、運転も、疲れたよね」
そう言いながら、敷き布団を引き寄せようと身をかがめた彼女の浴衣が少し緩み、ふくよかな胸元が視界に入る。
「あーもう……」
和人は額に手を当て、座椅子に深く沈み込んだ。
無意識に指先に力が入る。何かを掴む代わりに、ただ空を握った。
「和人、大丈夫? 疲れた?」
ユキナが顔を覗き込んでくる。その一瞬で、意識が引きずられる。視線を切るより先に、喉がわずかに鳴り、呼吸が乱れる。
手が前へ伸びる。
距離を詰めかけて、寸前で踏みとどまる。
「……ダメだ」
「何が? 大丈――」
「好きな子とこんな状況、どう考えても平常心でいられるわけない。やっぱり、俺は車で寝る」
和人はそう言いながら立ち上がった。
「え?」
「ごめん、わかって。ここにいる方が、俺は確実に疲れる。ユキナはここで寝ていいから。朝起きたら連絡する。じゃあ、おやすみ」
口早に言い残し、和人は部屋を出て行った。
「ちょっ……」
残されたユキナは、閉じたドアを見つめたまま立ち尽くしていた。




