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第32章

 海沿いの道をなぞるように車を走らせていると、視界の端で光が弾けた。カーブの先、丘の上に、ガラスの粒を散らしたようなきらめきが見える。


 白い壁とブルーグレーの屋根。吊るされたモビールが潮風に揺れ、虹色の光を散らしていた。


「あそこ、お店かな」


「寄ってみる?」


 ユキナが頷くと、和人はウィンカーを出して脇道に入った。


 店の前にある駐車スペースに車を停める。


 先ほど見えた店先のモビールは、角度が変わるたび、ゆらゆらと光り、色を変えている――まるで風景の一部が呼吸しているようで、ユキナの胸は高鳴った。


 店に入ると、ガラス細工が並ぶ棚が目に入る。器や花瓶、淡い色のオブジェが陽射しを受けて輝き、床に色の影を落としていた。


「いらっしゃいませ」


 中年の女性が声をかける。


「すごく素敵なお店ですね」


 ユキナが言うと、女性は笑みを浮かべた。


「ありがとう。すべて主人が作っているんですよ」


「へえ……すごい」


 ユキナは店内を見回して言った。


「奥は、カフェになっているの」


「いい香りがしてるなあって思ってたんです」


 ユキナは香りを確かめるように、小さく息を吸った。


 彼女のそんな様子を見て、和人は息を漏らすように笑って言う。


「コーヒー、頂いていいですか?」


 女性はにこりと頷いた。


「こちらへどうぞ」


 店員に続いて奥へ進むと、小さなカフェスペースが現れ、海の見える窓際の席へ案内される。そこからは、店の奥にあるガラス張りの工房の様子も見ることができた。


 炎の赤と、店内の静かな光が、隔てられた空間で溶け合っている。


 しばらくして、コーヒーと焼き菓子が運ばれてきた。ファーブルトンと説明されたその菓子は、綺麗に焼き色がついている。内側には黒いプルーンが沈んでいて、切ると、生地はしっとり重たい。口に入れると、卵とバターの甘さに、果実のほのかな酸味が混ざった。


 嬉しそうにそれを頬張るユキナを見て、和人は笑った。


「本当、うまそうに食べるよな」


 食べ終えてコーヒーを飲んでいると、奥の工房から男性が出てきた。


「いらっしゃい」


 恰幅のいいその男性は、気さくな笑顔を見せた。


「時間があれば、吹きガラス体験もできるよ」


「わあ! やってみたいです」


 ユキナが即答する。


 工房に足を踏み入れた瞬間、熱を含んだ空気が肌にまとわりつく。奥では炉の火が橙色に揺れていた。


「撮影してもいいですか?」


「ああ。好きに撮ってくれて構わないよ」


 和人の問いかけに、男性は気さくに答えた。


 ユキナは吹き竿を受け取ると、その重さに少し戸惑いながらも、言われた通りに息を吹き込んだ。


 ガラスがわずかに膨らむ。促されるまま回す。


 少し離れた位置で、和人がカメラを構えていた。


 炎の光を受けたガラスと、ユキナの眼差しを、静かに追う。


 シャッター音が短く落ちる。

 角度を変え、もう一枚。

 淡々とその瞬間だけを拾っていく。


 色を選び、火にくぐらせ、ガラスに馴染ませる。いくつかの工程を経て、ガラスは冷却台へと移された。


 出来上がった作品の入った箱を受け取る。


「楽しかったし、美味しかったです! ありがとうございました」


 ユキナは満足そうに笑った。


 厚意で半額にしてくれた代金を和人が支払うと、ユキナはわずかに戸惑いを見せた。そんな彼女をよそに、和人は夫婦に礼を述べ、ユキナの腕をひいて店を後にした。


「お金、払う」

 

 助手席で自身の財布を手にしたユキナは言った。


「いいよ別に」


 シートベルトを締めながら、和人は言った。


「でも体験は私が――」


「俺も楽しかったし」


 何か言い返そうと口を開いた瞬間、和人はユキナの顎を軽く押さえ、指先を唇に押し当てた。


「ん……?」


 甘い風味が口の中に広がる。


 舌の上で小さく転がるそれは、飴玉だった。おそらく、いちご味。


「ずるい」


 ユキナの言葉に、和人は軽く笑ってエンジンをかけた。そんな彼を見て、ユキナは言葉を続けるのをやめた。


 走り出した車の中で、箱からグラスを取り出し、そっと持ち上げてみた。


「きれい……」


 ユキナは小さく息を吐く。


「いい写真撮れたよ」


 和人は前を見たまま言った。


「素敵なお店だったもんね」


「いい表情してたから。たくさん撮っちゃったよ」


「え……私の写真?」


「うん」


「必死に吹いたから、絶対変な顔してるよ……」


「そんなことないよ。真剣で、可愛かった」


 間を置かずに返る声が、やわらかく落ちる。


「……誰にも見せないでよ」


「見せるわけないじゃん。もったいない」


 ユキナは、黙って窓の外に広がる海にグラスをかざしてみた。


 光を透かした淡い水色越しに、外の世界がやわらかく揺らぎ、形を変えていた。


 視界の端でハンドルを握る和人は、スピーカーから流れる英語の曲を、小さく口ずさんでいる。


「今ちょうど昼だけど、ユキナ腹減ってる? この先に店数件あるから、どこか寄れるよ」


 和人がふいに言った。


「あ、ううん。あの焼き菓子結構食べ応えあったから、まだいいかも」


「だよな。じゃあ、このまま岬に向かおうか」


 車は緩やかなカーブを抜けたあと、分岐を左折した。


 道の先で視界がいったん遮られ、すぐに開ける。低い草地と、なだらかな起伏の向こうに、突き出した岬の影が現れた。先端へと続く細い道が、まっすぐに伸びている。


 車はそのまま、迷いなくそこへ向かっていった。


* * *


 岬の展望台へ行くには、駐車場から石段をしばらく登る必要があった。


 木々に囲まれた階段では、小鳥のさえずりが響き、新鮮な風が緑の香りを運んでくる。木漏れ日が揺れ、光と影が足元を移ろう。


「あ」


 和人は静かにそう言い、肩に下げていたカメラを素早く構えた。


 ファインダーを覗く横顔に、ユキナはふと息を止める。

 普段のやわらかい空気は消え、別人のような気配が漂っていた。


 眉のわずかな動き、手元の微調整、呼吸すら止めたかのような静けさ。


 獲物を射程に捉えた野生動物が、狙いを定めたときのような静かな迫力。


 その眼差しはひたすら真っ直ぐで、何かを逃すまいとする意志に満ちている。


 その横顔を見ていると、周囲の音が遠のいていく。


 気づけば目を離せなくなっていた。カメラを通して世界と向き合う和人の、研ぎ澄まされた集中。


 怖い、とさえ思った。そこにあるのは、今まで知らなかった彼の顔。


 乾いたシャッター音が空気を割く。


 間もなく和人はゆっくりと顔を上げた。視界にユキナが入った瞬間、表情がやわらぎ、口元が綻んだ。


 その笑顔を見て、ユキナは安堵で全身の力が抜けるのを感じた。


「ルリビタキ」


 和人は木の枝に止まる小さな鳥を指差す。


「オスはあんな風に光沢のある青で、ほら、脇腹にオレンジも入ってる」


 ユキナは、彼の穏やかな目の奥に、さっきの鋭さの余韻を見ていた。


 ユキナも、シャッターを切った。

 同じものを撮れば、何かを知れる気がした。


 それでも、胸の奥には、うまく言葉にできないものが残っていた。

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