第31話
空は澄みわたり、青がどこまでも広がっている。風は軽く、さらりと頬を撫でる。撮影にはこれ以上ない日和だった。
朝の日差しが眩しくて、スマホの画面を見るのにも苦労する。
時刻は6時45分だった。
ユキナが地元の駅前に着いて間もなく、黒い軽の四駆車が視界に入った。短いボンネットに、垂直に近いフロントガラス。四角い車体に、少し大きめのタイヤが収まっている。
駅前ロータリーの脇にその車は止まり、和人が運転席から降りてきた。
「おはよう。ごめん、早めに出たつもりだった。結構待った?」
そう言いながら、和人はユキナのリュックを流れのまま、自然に持った。
「おはよう。ううん、私が勝手に早く来ただけ。朝弱いから、アラーム超かけたの! 絶対待たせたくなくて」
ユキナは、満面の笑みを浮かべていた。
いつもは大抵待たせる側の彼女にとって、待ち合わせ場所に早く着けたというだけで、自分ではかなりの評価ポイントだったのだ。
「はは、負けた。はい、乗って」
和人はそう言って助手席のドアを開けた。
「ありがとう。お願いします」
ユキナが車内に乗り込むと、和人は彼女の荷物を後部座席にそっと置いた。
ユキナがシートベルトをしたことを確認すると、車は走り出した。
街並みを離れ、車は郊外の広い道を静かに進んでいた。風景は徐々にその奥行きを増し、畑の向こうに低く連なる山の稜線が姿を現す。
車内には、小さな笑いが何度も生まれては、ゆっくりと空気に溶け込んでいく。
窓の外に広がる景色よりも、その空間にある安心感のほうが、ユキナにとっては印象的だった。
音楽に合わせて、指先で軽くハンドルを叩く仕草。ユキナの言葉に、ふと笑う横顔。
とりとめのないやりとりなのに、不思議と満ち足りていて、ユキナの表情も自然と綻んでいった。
和人の運転は滑らかだった。交差点の手前で自然に減速し、車体がほとんど揺れることなく停止する。
「朝、なんか食べてきた?コンビニでも寄ろうか」
和人は言った。
「あ、そうそう、サンドイッチ作ってきたの。運転しながら食べられるものと思って」
ユキナは体を捻って振り返り、後部座席に置かれた自身のリュックに手を伸ばした。
「ユキナ、そんなことしてくれちゃうのか。最高。いただきます」
喜びを頬に浮かべ、和人は言った。
「普段キッチンに立たないから苦戦しちゃった。たかがサンドイッチに」
そう言って自虐的に笑うユキナだったが、和人はそれを一切茶化すことなく、丁寧に言った。
「たかがじゃないよ、工程多くて大変だよな。朝からわざわざありがとう」
そんな彼の言葉に、ユキナは思わず微笑み、茶色いワックスペーパーに包んだサンドを差し出した。
「どうぞ! これはねー、たまごサンド」
「いただきます」
「あーやばい! なんか緊張するね、どうかな?」
一口食べる彼を見て、突然の緊張感がユキナを襲った。
「え、おいしい? 大丈夫? まさか、まずい……?」
咀嚼する和人を見つめ、ユキナはあたふたとして言った。
「ちょっ、飲み込むまで待てって」
和人は、ユキナの様子を見て思わず笑い、ゆっくり飲み込んでから口を開いた。
「超うまい。まだまだ食える」
「あー良かった。食べて食べて。ハムサンドもあるよ。てか、考えてみたら、自分の作ったもの人に食べてもらうの初めて。こんなドキドキするものなんだね」
「そうなんだ。ラッキー」
「ラッキー?」
「一番乗りってなんか嬉しいじゃん。ユキナの経験値アップに携われてる感じ」
「携わるって、手作りのサンドイッチ食べるだけだよ?」
ユキナはクスクスと笑った。
「光栄ですよ」
そう言って彼はユキナを一瞥し、二人の視線が交わった。1秒にも満たない一瞬の間、優しさの滲むその眼差しは、ユキナを温かなものですっぽり包み込むようだった。
初めは面食らっていた彼の独特な空気感が、ほとんど無意識の中で、ユキナの胸の奥に馴染んでいった。
他愛もない会話を邪魔しないボリュームで流れる、聴き慣れないサウンドが、どこか耳に残っていた。
ざらついたギターの音と、深く沈む低音。鋭く切り込むドラムの音が、どこか胸をざわつかせた。叫びにも似たボーカルが、美しい旋律と交錯していく。
会話の合間に溶け込む、穏やかな彼の笑顔を眺めながら、ユキナは少し意外に思った。
それでも、そのサウンドに耳を傾けるうちに、むしろ納得がいった。
――確かに、彼らしいのかもしれない。
強さと繊細さ、抑制された情熱。迷いのない音。
「さっきから流れてる曲って、全部同じ人?」
「うん。アメリカのロックバンド。中学の頃から好きなんだ。うるさくない? 聴きたい曲あったらBluetooth繋げるから、かけていいよ」
「ううん。なんか、かっこいいなって思って」
「お、好き?」
「よくわかんないけど気になる……って感じ」
「はは、その感覚わかる。俺も最初そうだった。それ、沼る一歩手前だぞ」
和人の設定した音量は、驚くほどちょうどよくて、音の強さよりも奥行きだけが心に残る。
一曲ごとに、彼の本質が少しずつ輪郭を持って迫ってくるような気がした。
どこか人と違っていて、だけどそれを言い訳にもしない。自分にまっすぐで芯がある。
聴きながらユキナの意識は、隣にいる彼の存在へと、そっと引き寄せられていた。
それは、ありふれた時間の中にふっと吹き込んだ、知らない風のようだった。




