第29章
校庭の木々が、熱を含んだ風に葉を揺らしている。
写真部の部室の窓には、入道雲を浮かばせた青い空が広がっていた。
「コンテストの写真、何を撮ろうか、まだイメージすら決まってなくて」
ユキナは、初めて参加する高校生写真コンテストへの応募作品に、頭を悩ませていた。締め切りまでは、あと3週間。和人が、写真と向き合う良い機会になるかも、と応募を勧めてくれたのだ。
「今回テーマは自由だから、方向性絞られてるよりもやりやすいんじゃないかな。カメラ持って出かけたら、きっと自然と撮りたいもの見つけられるよ」
和人は椅子に腰掛けたまま、ノートパソコンを操作していた。
「うーん……。どこがいいかなあ。和人は普段、どんなところに撮影しに行くの?」
和人が、しばらく考えるような表情をしたあと、ノートパソコンの画面を回転させ、ユキナの方へ向ける。
そこには、海に突き出た岬の写真が表示されていた。
「俺は今回このコンテストにはエントリーしてないけど、この岬から海を撮りたいと思ってて。俺、王道ど真ん中のネイチャーフォトが、なんだかんだで一番好きなんだ」
「あ、ここ! この前お姉ちゃんが彼氏と行ってた。すごく良かったらしくて、私も行きたいって思ってたの」
「へえ。俺、次の土曜日、ここに行こうかと思ってて」
「いいな、私も行きたいな。でも、どうやって行くの? ここから結構遠いし、日帰りで行けるのかな」
「……車で行こうかなと思ってた」
和人は一瞬だけ間を置いてから言った。
「車? 誰が運転するの?」
「俺」
「和人が?」
「4月の誕生日に合わせて免許を取ったから運転できるんだ。電車とバス乗り継いでこの距離を日帰りはさすがにきついし、レンズや三脚もあるから、撮影は車の方が楽なんだ」
「そうだったんだ」
「免許を取ってすぐ、叔父がちょうど乗り換えるタイミングだったセカンドカーを、安く譲ってもらって。親が立て替えてくれたから、毎月バイト代は全額返済に回して、先月で完済したところなんだ」
「4月からだから……たった半年で?」
「ありがたいことに激安だったからね」
「すごいなあ」
ユキナは、隣にいる和人を改めて見ると、呟くように言った。
「バイト先の写真スタジオの出張撮影で、長距離の運転自体は割と慣れてるんだけど――」
「バイトって、写真屋さんなの? 毎日遅くまで忙しくしてるみたいだったから、てっきりコンビニとかファストフード系かと思ってた」
「60代の夫婦が2人だけで経営してる、自宅兼店舗になってるスタジオ。こぢんまりとした店なんだ」
「へえ、素敵」
「もともと顔見知りだったんだ。馴染みの固定客やリピーターが多くて人手が足りないからって、声かけてくれて、2年くらい前から手伝ってる。夜遅いのは、勤務後に俺が色々やって、勝手に残ってるだけ」
「そうだったんだね」
「もともとその店はスタジオ撮影専門だったんだけど、最近からロケーション撮影も始めて。ブライダルフォトとか七五三でも、ロケ撮影を希望する人が増えてきてるから、早く手伝えるようになりたくて最速で免許取ったんだ」
「求められてる感じ」
ユキナは感心したように言った。
「全然だよ。忙しいなか、初心者の俺が加わってるんだから。まだ役に立ててる気がしない」
そう言いながらも、和人の笑顔にはどこか満ち足りたものがあった。
「母親が運転できないから早めに免許欲しかったってのもあったけどな。兄はもう家出て地方に勤めてるから、俺が運転できた方が何かと便利だろうなと思うし」
「和人って、本当に高校生なの? お母さん支えて、仕事場でも頼りにされてて……人生何周目?」
「大袈裟だよ。そこまでじゃないって」
和人は笑った。
「写真屋さんでは、他にどんな仕事してるの?」
「最近は、色々任せてもらえてて。撮影もするし、写真のブラッシュアップとか編集作業も俺にやらせてくれるんだ。独学でやってきた俺にとって、何もかもが勉強になることだから、刺激的で楽しい」
「和人、本当に写真が好きなんだね」
「写真に救われたよ、俺は」
和人は一度言葉を止め、窓の外へ視線を向けた。
「怪我してバスケ出来なくなった時に、さらに父さん死んで――追い打ちかけるように、その時付き合ってた彼女にも振られて。やさぐれかけてたからな」
「お父さん……そうだったんだ」
「うん。高1の夏に、膵臓癌で」
和人は淡々と、事実を並べるように話を続ける。
「その時俺バスケ部で、一年で一人だけレギュラーに選ばれたときだったんだ。でも試合中に足を骨折して、治療とかリハビリでバスケ休んでる間に俺のポジションも他のやつに定着しちゃって。日常生活は普通に送れるし、部活も続けられるけど、前のようにプレイするのは難しいって診断された。それでバスケ辞めたんだ」
「そうだったの」
「今まで積み上げてきたものが一瞬で崩れた気がして、かなり落ち込んだよ。その時期に、父さんがあと半年って余命宣告されて。でも結局、1ヶ月経たずに死んだ。昔から健康そのものって感じの人だったから、急すぎて受け入れられないまま――何ヶ月も呆然としてた。何もやる気になれなかった。ずっと付き合ってた彼女に、急に振られたのも同じ時期で」
「色んな事が、重なっちゃったんだ……」
「マジで、なんの嫌がらせかと思ったよ。理科の授業中に『やってらんねえ』って机に書いたの、その時期」
「じゃあ、あの最初のラクガキって、2年前のだったの?」
「うん。消し忘れたまま、ある日ふと見たら文字が足されてて。今この学校のどっかで、あの頃の俺と同じように色々うまくいかなくて、クサクサした気持ちのやつがいるのなって」
「私ね、あのラクガキで、力抜けたって言うか……救われたんだよ」
「書いてよかった」
和人は柔らかく微笑んだ。
「和人はいつも落ち着いてて、穏やかだから――そんな辛い経験してたなんて」
「まあ、おかげさまで、今は全然元気」
「乗り越えたんだね」
「乗り越えたというか、現実を受け入れられるようになったかな。そのきっかけが、このカメラ。父さんの書斎を整理してた母さんが、これを見つけたんだ。父さんが若い頃に一時的にハマって、よく使ってたやつだって懐かしそうにしてた。中に、まだ現像されてないフィルムが入ってて、数枚カウントされてた。それを、近所の写真店に持って行って現像してもらったのがきっかけで、今のバイト先の夫婦と知り合ったんだ」
「何が写ってたの?」
和人の話を黙って聞いていたユキナが尋ねた。
「お盆に家族で父さんの実家に帰省した時の、田舎の風景。別に撮り方が凝ってるわけでもないし、ほとんどブレたりボケたりしてた。たまに指入ってたり、全然うまくない」
「お父さん、可愛い」
ユキナはクスクスと笑った。
「どっか抜けた人だったんだよ」
そう言って和人も笑った。
「でも、2枚だけちゃんと撮れてる写真があったんだ。祖父母と花火する、俺と兄貴。もう一枚は、それを縁側で眺める母さんの横顔」
「良いシーン」
「それまで淡々と仕事こなしてた母さんが、その写真見た日から、父さんのことで、泣いたり笑ったり、感情を見せるようになった」
和人は手に持っていた古いカメラを指でなぞった。
「今まで写真って、俺は撮るのも撮られるのも苦手だったんだ。でも、こんな風に長い時を経てこそ、写真を撮る本当の意味があるのかもって」
ユキナの胸の奥に、じんわりと熱が広がる。やわらかく満ちていくその感覚の底に、わずかな痛みが沈んでいた。
いくつもの喪失をくぐり抜けてきたからこそ、彼の笑みはいつも、押しつけがましさのないまま、静かに届くのだと知った。
――写真って、ここまで人の心を動かすことができるんだ。
ただ純粋に、心が打たれた。
「校則では、免許取得したら卒業まで学校に預けなきゃいけない決まりだから、こんな車使う仕事してんのバレたら、即アウトなんだろうけどな」
和人は肩をすくめるように言った。
「そんな校則あったんだ」
「だから俺から気軽に岬に行こうとは誘えない」
「確かに……行きたいって言われても、和人も困るよね」
「俺は別に――」
和人は言葉を切り、ノートパソコンの画面を一度閉じた。
「バイト先の店主の古い知り合いに、芸能人の写真集とかコマーシャルフォト撮ってる人がいて。今、不定期でその人の仕事を手伝いに行って、セットの組み方やライティングとか、技術面を学ばせてもらってるところなんだ。この業界でやっていくとき、即戦力になれるように」
椅子の背にもたれ、天井を仰ぐようにしながら話を続ける。
窓の外から、校庭を掃除する生徒の声がかすかに聞こえてきた。
「何が言いたいかっていうと、もし何かあっても、最低限、自分で尻拭いできるようには動いてるから――もちろん、停学なんてことにはならないように細心の注意を払ってるけど、仕事で運転してる時点で覚悟はしてるから、俺のことは特に気にしなくていいんだ。でも、ユキナを乗せるとなると話は別というか」
和人はユキナの方へ視線を戻し、言葉を区切った。
「和人ってすごくしっかりしてる……。でもそっか。誰かを乗せるのはやっぱ怖いよね」
「人を乗せることはあるから、それ自体が怖いってことではないけど。今の俺の立場で、無責任にユキナを誘えないよ」
「和人が迷惑じゃなければ……私は、和人とその岬に行きたいなあって」
少し間を置いて、和人が口を開いた。
「迷惑なわけないよ。でも、ユキナ乗せる以上は、ちゃんとユキナの両親に話して、了承を得ておきたいと思うけど、いいかな」
「えっ? いいよそこまでしてくれなくても。うち、結構放任だし」
「いや、そういうわけにはいかないよ」
和人は苦笑するように息を吐いた。
「いいの、ほんと。ありがとう」
「じゃあ親にはなんて言って出かけるつもりなの? その辺に行くのとは違うわけだし」
「え? ちょっと友達と遊びにいくーって」
「適当だなあ……」
和人は呆れたように言った。
「超楽しみ! ワクワクする」
その笑顔が、どこまで現実を含んでいるのか、測りきれなかった。
和人は答えず、窓の外に目を向け、ほんのわずかに息をついた。
入道雲はゆっくりと横に流され、形を変えていた。




