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第28章

 玄関の扉を開けた瞬間、出汁の匂いがふわりと流れ出た。

 鼻先をかすめた、懐かしいはずのその匂いに、わずかな憂鬱が湧き上がる。


「ただいまー」


 ユキナの声が、先に奥へ消えていった。樹が靴を脱ぐ頃には、もう階段を上がる音しか残っていない。

 普段から彼女は、帰宅すると部屋へ直行する。


「ユキ帰ったの? 遅かったね」


 真子が言いながら顔を出したとき、ユキナの姿はすでになく、代わりに視線が樹へと移る。


「あ、たつも一緒だったんだ。おかえり」


 真子は目を細めて微笑んだ。


「ただいま」


 靴を揃え、そのまま廊下を進むと、二階から降りてきたサヤカと遭遇した。


「おかえりー。よかった、たつ来れたんだ」


「おう」


 リビングに入ると、空気の温度が一段上がる。


「たつ。久しぶりだな」


 ユキナの父、信二(しんじ) が缶を持つ手を上げた。すでに仕事から戻っていたらしく、部屋着でソファに沈んでいる。


「こんばんは」


「なんだよ、ちょっと会わないうちによそよそしくなって」


 信二は笑いながらそう言うと、一口ビールを含んだ。

 その軽さに乗り切れず、視線だけがわずかに外れる。


 信二は出張で家を空けることが多かった。最後に信二にあったのはいつだったろう。樹はふと考え、すぐに辞めた。


「お前、またでかくなったか?」


 肩口を測るような目線。


「パパにいつから会ってないか覚えてねえけど――それからは多分伸びてる」


 返しながら、樹はエコバッグをキッチンに運んだ。


 何かしていなきゃ、この空気に飲まれてしまいそうだった。


 汚れきった欲望を、空想のユキナに毎晩ぶつけている。

 まるで久々に会う息子に向けるようなその瞳を、直視するのが怖い。


「ありがとう。ユキナ一人じゃ重いなって、頼んだあとに気づいて。たつも一緒でよかった」


 真子の優しい笑顔につられるように、樹はふっと笑みを返した。


「気づくの遅いよ。帰り偶然会ったからよかったけどさ」


 部屋着に着替えてリビングに降りてきたユキナが、髪をまとめながら文句を言っている。

 その動きに引かれて、視線が触れかけて、すぐに離した。


「ごめんごめん」


 真子は手際よく準備している。


「たつ、辛さどのくらいいける?」


「辛めが好きだけど――あいつ辛すぎると食えなくなるから、後から好みで辛み足す感じでいいよ」


 真子は対面キッチン越しにユキナを見る。信二とテレビを見ながら楽しそうに話している。

 その光景を、少し離れた位置から眺める形になる。


「うん、そうしよっか」


 その流れで、樹は紙袋を差し出した。


「これ」


「なに?」


「……差し入れ」


「なに、もう。そんなこと覚えなくてもいいよ」


「別に大したもんじゃないよ」


 受け取って中を見た真子は、嬉しそうに微笑んだ。


「ここの好きなの、覚えててくれたの?」


「見かけたから」


「嬉しい。ありがとう。あとでみんなで食べようね」


――みんなで。


 その輪の中にいることへの後ろめたさを、少しでも薄めたかった。だからフィナンシェを買ってきた。

 媚びて、怯えて――その滑稽な自身の現実を、否応なく突きつけられる。


「野菜切るわ」


 樹はバットに並べられた野菜を切り始める。

 他の音を押し出すように一定のリズムで包丁を動かす。場の温度から少しだけ切り離される気がした。


「ありがとう。助かる」


 真子の表情から力が抜ける。


 テーブルにはすでに、鍋とカセットコンロが用意されていて、サヤカが皿を並べているところだった。


 食器の触れ合う音、テレビの音、ユキナと信二の笑い声。

 それぞれが混ざって、ひとつの流れとなり押し寄せてくる。


「みつは、まだ?」


 真子がキッチンから問いかける。


「さっき連絡来た。もうすぐ着くって」


 サヤカの言葉通り、程なくして光樹が到着する。


「ごめん、遅くなった」


 合鍵でリビングまで入ってきたスーツ姿の光樹が、ネクタイを緩めながら言った。


 樹も、子供の頃渡された合鍵をそのまま持っていたが、小学生以来それを使ったことがない。


 当たり前に入ってきた光樹に、樹は自分と彼の立ち位置の差を実感した。


「おかえりみっくん。もう出来るよ」


 そう言って見上げるユキナに、思わず光樹は微笑んだ。


「ユキ、ただいま」


 ユキナの頭に手を置く。


「おす。残業おつかれさん」


 光樹は声のするソファへと視線を向けた。


「パパ。もう飲んでんの? ずりー」


 言いながらソファへ歩み寄るその動きには、一切の淀みがない。


「みつの分も、冷えてるよ」


 サヤがキッチンから声をかける。


「お、ありがと。パパビール足りてる? 一応買ってきたけど」


 光樹は手に持っていた6缶入りのビールを信二に見せる。信二の手にあるものと同じ銘柄だった。


「おー! ありがたい。あと4本しかなかったんだ」


「4本もあれば十分じゃない」


 真子が横槍を入れる。


「みつもいるから」


「みつはいいの。でもあなたは健康診断の数値、散々だったじゃない」


「いや、それはまあ……」


 信二は口篭る。


「まあまあ、ママ。今日だけ許してやってよ。間に合えば親父も来るし」


 そう言って笑いながら、サヤカの隣に立つ。サヤカは光樹の手からかばんを取ると、リビングの脇に置いた。


 光樹は昔と何も変わらない。この家でもいつも自然体だ。サヤカの恋人でもあることも、当たり前のように認められている。迷いなく馴染んでいる光樹をよそに、樹は淡々と野菜を切った。


 自分とは違って、彼は堂々とここにいていい存在に感じた。


 鍋が煮立つころ、全員が着席した。

 真子が蓋を開けると、湯気が立ち上り、それぞれの輪郭をやわらかく曖昧にする。


「いただきます」


 声が重なる。


 箸が伸び、器が触れ、笑いが広がる。


 やり取りは途切れない。

 同じ速さで、同じ距離で、流れていく。


 父の帰りが遅い日は、昔からよくこの家族にこうして混ぜてもらっていた。あの頃はただそこにいれば、隣にユキナがいた。その意味や理由なんていちいち探さなかった。


「あ、今日の出汁おいしくできたかも」


 真子が満足そうに頷く。


「ねえサヤ。肉ばっか取らないで」


「少しじゃん。ユキの方が、つみれたくさんとってる」


「もう。2人とも、まだたくさんあるから好きに取りなさい」


 真子が呆れたように言う。


「小学生から同じやりとりしてんぞ?」


 光樹は笑った。


「たつも加われよ、お前も昔は肉取り合ってたろ」


 信二が言うと、樹は笑う。

 笑いながら、会話の中心から半歩引いた位置にいる。


「一緒にしないでくれ」


「なーにさ、すかしちゃって」


 ユキナは樹を睨む。


「こいつ、スーパーの帰りに我慢できなくて、コンビニの特大肉まん買い食いしたんだ。お釣り余ってラッキーとか言って」


 樹が言うと、みんな絶句した顔をする。


「ちょっとたつ、言わないでよ」


「あんた、お釣り出なかったって言ったじゃない」


 真子が言う。


「特大肉まん食べた後にこの食欲?」


 サヤカが呆れたように言った。


「普通だよ普通」


「お前の食欲が普通なわけあるか」


 信二が笑いながら突っ込む。


 そこで、インターホンの音がして、サヤカが席を立つ。

 

 間もなくサヤカに続いてリビングに入ってきたのは、樹の父、大輔(だいすけ)だった。


「いつもより早く終われたんだ。良かった、まだやってるみたいだな」


 そう言って大輔は微笑んだ。


「ちょうどいいとこだよ。今食べ始めたの」


 サヤカが答える。


「おかえりなさい。間に合ってよかった」


 真子は大輔に駆け寄り、上着と鞄を受け取った。


「ああ、ありがとう真子さん」


「大ちゃん、座れ座れ。おいサヤ。椅子用意して」


 席が一つ追加され、また鍋が動く。

 人数が増えるほど、場はさらに完成していく。


「デザートでも買ってくればよかったんだけど、どこももう閉まってて。手ぶらで申し訳ない」


 信二にビールを注がれながら、大輔は言った。


「いいの、いいの。たつが私の好きなフィナンシェくれたし、みつもビール買ってきてくれたから、もう十分」


 そう言うと、真子は嬉しそうに樹を見た。


「それなら良かった」


 大輔は安堵の表情を浮かべた。


「フィ……? なんだって?」


「パパフィナンシェわかんないの? ママ大好きなのに、それはやばいよ」


 ユキナが言うと、信二が言った。


「ああ、あの平べったい甘いのか――おいおい、たつ。あんま気使うなよ?」


「たまたま見つけたんだよ」


「大輔さん明日は早くないの?」


 真子が聞くと、大輔は頷いた。


「うん。明日はいつもより遅めなんだ」


「お、ちょうどいいな。じゃあ改めて――乾杯!」


 信二が言うと、みんなそれぞれ手元のお茶やジュースなどを掲げ、グラスの触れる音が響く。


 リビングには、笑い声も、音も温度も、すべてが揃っていた。


 その中で樹だけが、自分がそこにいることに根拠を持てずにいた。

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