第27話
放課後の教室には、数人の生徒が残っていた。窓の外は明るいままだが、その光はゆっくりと落ちていく気配を帯びていた。
樹は椅子に浅く腰掛け、手元の数式に視線を落としていた。
自分の部屋で勉強するのは気が乗らなかった。窓の向こうに気を取られるのは目に見えている。
図書室で軽く問題集を解いてから帰る予定だったが、同じクラスのサッカー部員たちと話しているうちに雑談が続き、その流れで教室に残ったまま、自席で勉強を始めていた。
後ろの席では、彼らがまだ談笑している。
笑い声はときどき大きくなって、すぐにまた戻る。
話しかけられれば、軽く返す。そうしながらも、樹はすでに数ページを解き終えていた。
シャーペンを指先で回しながら、数日前の体育祭を思う。
――あの距離。
指先が止まる。だが、考える意味もないと切り捨て、ページをめくった。
何かに急かされるように、ただペンを走らせる。
「樹、お前最近勉強しすぎじゃね?」
後ろから飛んできた声に、我に返った。
「まあな」
視線は動かさないまま返す。
「今日バイトは?」
「ない」
「俺らも久々に練習ないから飯行くけど、樹も来いよ」
「いえ。帰ってからも勉強がありますので」
「やめろってそのキャラ」
軽く笑いが起きる。
樹は口の端で笑いながら、鞄に荷物を入れた。
「また誘って。じゃあ、食い過ぎんなよフトダ」
そう言って立ち上がる。
「やかましいわ太田だわ!」
サッカー部のいじられ役、太田の返しに、教室は再び笑いに包まれる。
「じゃあな樹」
「勉強ほどほどになー」
仲間たちの声に片手を上げて応え、教室を出た。
彼らとは一年の頃からクラスが同じで、部活でもずっと一緒だったが、退部して以降、わずかに距離を置いていた。
彼らの話題は相変わらず部活のことばかりで、その中に無防備でいることはできなかった。気を抜けば、意識ごとサッカーへ引き戻されてしまいそうになる。
樹は、不自然にならない程度に行動をずらしていた。
それでも、休み時間やたまに部活のない放課後には、こうして同じ空気の中にいることもあった。
校門を出て駅へ向かう。
特進クラスの下校時間と重なり、道には生徒の姿がまばらにあった。
「あれ? たつ」
後ろから声がかかる。
今、一番会いたくない相手だった。
――放課後は部活だと聞いていたから、都合がいいと思っていたのに。
小さく息をつき、振り向く。
「お前、部活は? 早くね?」
後ろに立っていたユキナは、そのまま樹の隣に並んで歩き出した。
「部活、案外早く終わったの。コンテストのエントリーと、編集ソフトの使い方教わっただけなんだ」
「あそ」
「たつは、いつもより遅いね。なんかしてたの?」
「教室でちょっとな」
「ふうん。……あ、そうだ。今日ママが夕飯は鍋にするから、たつに声かけてって」
ユキナはスマホに視線を落とす。
「今サヤから連絡きて、みっくんも来るって」
「……俺はやめとく」
ユキナが顔を上げた。
「なんで? 勉強忙しい?」
「まあ」
「息抜きに来なよ」
「いや――」
「ママが、たつ好きだからってキムチ鍋にするって言ってたよ。最近みんな集まらなくて寂しいってしょっちゅうぼやいてる」
「……じゃあ、行く」
「やった」
前を向いて歩いていた樹は、その声に視線を向ける。ユキナは嬉しそうに笑っていた。
「これから買い物付き合ってね。白菜と飲み物買ってきてって言われてるけど、絶対重いから嫌だったの。ラッキー」
意図を理解し、樹は大きく息を吐いた。
地元の駅前のスーパーは、夕方の客で混み始めていた。樹は入口でカゴを取り、ユキナの押すカートに乗せる。二人はそのまま野菜売り場へ向かった。
「白菜って、半玉でいいのかな」
「足りねえだろ」
「どれがいいかな」
「重いやつ」
「ざっくりすぎる」
ユキナが笑う。
「外側締まってて、重いやつ」
「全部同じじゃない?」
樹は無言で一つ手に取る。
「これ」
「絶対適当でしょ」
「お前と一緒にすんな」
売り場を回り、頼まれたものをカゴに入れてレジへ向かう。真子から預かっていた現金で会計を済ませ、サッカー台へ移動した。
ユキナがエコバッグを取り出したところで、樹はふと振り向き、どこかを見た。
「ちょっと、袋詰めてて」
「え?」
そのまま樹は、店内の洋菓子店へ向かった。
樹は焼き菓子の棚の前で少し考え、フィナンシェの詰め合わせを手に取り、レジに差し出した。
「なにそれ」
袋詰めを終えたユキナが、声をかける。
「ママ、ここのフィナンシェ好きだったよな」
「好きだけど、それって――」
「おまえんちに」
「普通に来るだけでいいのに」
「そういうわけにもいかねえだろ」
淡々と答え、レシートを受け取る。
「……別に、うちだよ?」
樹は何も言わず、ユキナの手からエコバッグを取り、歩き出した。
店を出ると、駅前の街灯はまだ点ききらず、代わりに店先の明かりが地面にまだらな色を落としていた。
ユキナの声は、視界の端で続いていた。
「それでさ――」
「へえ」
「ふーん」
相槌をうちながらも、樹の頭の中は別の場所にあった。
拾い損ねた彼女の言葉が、いくつも足元に落ちていく。
樹は前を向いたまま、ほんの少しだけ歩く足を緩めた。
隣で揃えた歩幅と、2人の足音が静かに重なった。




