第26章
午後の競技が終盤に差し掛かった頃、各クラスの生徒たちは声を張り上げて声援を送っていた。放送の音とホイッスルが交じり、その空気は冷める気配がない。
紗江は騎馬戦の鉢巻きを結び直しながら、グラウンドを見渡していた。
2年男子のリレー開始を目前に、紗江は友人たちと騎馬戦参加生徒の待機場所へ向かっていたが、視線は落ち着かないままだった。
ふと、リレーの待機列に、樹の姿を見つけた。
仲間と軽く言葉を交わしながらも、どこか周囲から一歩引いた立ち方をしている。その横顔に、紗江の意識は留まった。
「私、リレー見てから行こうかな」
紗江が言うと、友人たちは足を止めた。
「あ、男子のリレーそろそろ始まる?」
「うん。第一走者と第二走者、もう位置についてるよ」
「騎馬戦の待機時間まで少し余裕あるから見ていこっか」
友人たちと、見やすい位置まで移動しながら、紗江の視線は待機列にいる樹を捉えたままだった。
第一走者が走り出すと、そこに樹たち第三走者が並んだ。
「やば、3組抜かれてる」
「大丈夫、アンカー竹本だし」
友人たちが盛り上がっている。
トップを走っている1組の第二走者が、次の走者である樹にバトンタッチする。
バトンを受け取ると、樹は猛スピードで駆け出した。
近くにいた下級生の女子たちが黄色い歓声をあげた。
「わあ、やっぱり大杉くん人気だね」
「やばい。大杉くんに差つけられてる! これでアンカーじゃないなんて、1組やばい」
「ここのクラスの部活組、みんな化け物だもん」
紗江は、樹が自分を「普通」と言っていた意味を理解した。
樹の後にもう一人が走り、バトンはアンカーへと渡った。
結果が確定すると同時に、先ほどまでの歓声は落ち着き、周囲の空気は次の競技へと切り替わっていく。
「あーあ。負けたー」
「でも、いい勝負だったよね」
楽しそうな友人たちの声を聞きながらも、無意識に、さっきまでトラックにいた広い背中を探していた。もう人の流れの中に紛れて見えなかった。
「紗江、行こ。ちょうど待機時間だ」
名前を呼ばれ、紗江は小さく頷いた。
リレーの結果が放送で告げられる頃には、すでに次の騎馬戦の準備が始まっていた。
紗江は足を止めて放送を聞き、ひとつ息を吐いてから、そのまま自分の騎馬の位置へ向かった。
「紗江、足場オッケー」
しゃがみ込んだ三人の背に手をつき、軽く体重を預ける。
「いいよ」
紗江の合図で、騎馬が立ち上がった。
ぐらりと揺れる視界。
さっきまでとは違う種類の緊張が、体に入ってくる。
開始のホイッスルと同時に、騎馬が一斉に動き出した。
紗江の騎馬の周りを、大将騎を守る仲間たちが取り囲んだ。そのすぐ近くで、別の騎馬同士がぶつかり合った。
紗江の周りを固めていた騎馬が、そちらに意識を向けた。
わずかに空いた囲みの隙間に、敵の一騎が入り込んできた。
紗江は迷わなかった。目の前に来た相手の鉢巻きだけを見て、手を伸ばす。
一つ。
歓声が上がる。
紗江は迷わず雪崩れ込んできた次の一騎に応戦する。
二つ。
少しだけ体勢を崩しながらも、上から覆いかぶさるようにして奪った。
三つ。
相手の動きが遅れる瞬間を待ち、躊躇なく手を差し込む。
「紗江いいよ、絶好調!」
「ガンガン行こう!」
友人たちが、下で激励の言葉をかけてきた。
視界の中で、相手が減っていく。
残っているのは、数騎。
その中には、大将騎もあった。守りが固く、前に出てくる様子はなかった。周囲が壁のように動いている。
大将騎の上には、1組のソフトボール部の女子がいた。腕の張りが強く、体の軸がぶれない。前に出る気配はなく、来た相手を上から潰すように待ち構えている。
「紗江、行ける?」
「うん」
騎馬は迷わず大将騎へ向かう。周囲にいた仲間の騎馬もそれに続き、鉄壁のような相手の騎馬とぶつかる。
「空いた。行こう」
紗江の合図で、そのまま大将騎へ踏み込んだ。
今までとは違う隙のなさに、紗江は一瞬呼吸を詰めた。正面からでは取れない。
相手が体勢を崩す瞬間。その一点に、意識を絞る。
相手の大将がこちらに手を伸ばそうと前のめりになった。騎馬がわずかに傾いたのを、紗江は見逃さなかった。
その隙をついて、体を目一杯に乗り出し、腕を伸ばす。
指先が、布に触れる。
相手もすかさず手を伸ばしてくる。
紗江は、そのまま素早く手を振り上げた。
――取れた。
手の中に、確かな感触が残る。
同時に、相手の腕が、強く肩に当たった。
その衝撃を受け、体が宙に浮く。
次の瞬間、背中から砂に叩きつけられた。
空気が一気に押し出され、呼吸が止まる。
遅れて、音が戻ってくる。
試合終了の笛が鳴っていた。
勝敗を告げるアナウンスと、どよめきが響く中で、紗江は手の中の鉢巻きを離さなかった。
* * *
スピーカーから、閉会式が始まるアナウンスが校庭に響く中、校庭脇の水道で、紗江は怪我した肘を洗い流していた。
蛇口から落ちる水が、赤く滲んで流れていく。
「大丈夫か? 派手に落ちてたろ」
水音に混じって声が落ちる。
顔を上げると、すぐ横に樹が立っていた。
「大杉くん」
紗江は蛇口を閉めた。水滴が肘からぽたぽたと落ちる。
「大丈夫だよ。肘に擦り傷できたくらい」
「いや痛いだろ、これ」
流血する肘に視線を落としたまま、樹の声が少し低くなる。
「少しね。今水で洗ったから、救護エリアで手当てしてもらう」
「怪我すんなって言ったのに」
「でも、勝ったよ」
「ああ。格好良かった」
――見ててくれたんだ。
肘の痛みよりも、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「大杉くんこそ」
「俺?」
「うん。リレー格好良かった」
「特に目立った活躍もなかったけど」
「そんなことない。大杉くんが走ってる姿見て、私も騎馬戦頑張ろって思えたんだ」
「そうか。でも――なんなら障害物競争の方が頑張った」
「あはは。それもダントツだったもんね。練習の成果ありだね」
「手抜いたら柔道部の金澤に殺されるからな。でもガチすぎて他の組に引かれたわ」
「1組って本当仲良いよね。全力で団結してて、すごく楽しそうだなって」
「熱血すぎてうるせえけど、みんないい奴らだよ」
樹は一瞬だけ校庭の方に目をやった。
「来年度には俺、部活枠からコース外れるから。あいつらとは、今年が最後」
「そっか……。特進、行くの?」
「コース変更の試験受かればな。落ちたら一般」
「大杉くんなら余裕だよ」
「だといいけどな。……じゃあ、俺行くわ」
「あ、うん。じゃあね」
樹の背中が、校庭の喧騒の中に溶けていく。
――声かけるためだけに、わざわざ、ここまで来てくれたんだ。
手当てに向かう足取りが、軽くなるのを感じた。




