第25章
午前中の競技がひと通り終わり、校内放送が昼休憩の開始を告げた。
綱引きのロープが地面に引きずられる音、まだ熱の残るトラックを踏む足音、歓声の余韻を引きずったざわめきが、ゆるやかに校内へと広がっていく。
生徒たちはそれぞれの居場所へ散り、教室や廊下、校庭のあちこちで弁当を広げ始めた。
ユキナはクラスで昼食を食べ終えると、一緒にいた友人たちに軽く声をかけ、そのまま席を立った。休憩の余韻を置き去りにするように、足早に写真部の部室へ向かう。
部室のドアを開けると、機材と薬剤の匂いがほのかに残る空気の中で、和人が顔を上げた。
「ユキナ。早かったね」
穏やかな声だった。待っていたことを、そのまま隠さずに伝えてくる響き。
「急いだから」
「ゆっくり食べてきても良かったんだよ」
和人はわずかに眉を緩める。気遣いの言葉だが、その奥に、どこか嬉しさが滲んでいた。
「ううん。早く来たかったの」
言い切ったことに、自分でも少しだけ胸が鳴る。それでも、和人の前では取り繕うほうが不自然に思えた。
和人は机の上のカメラを手に取り、軽く持ち上げる。
「この一眼レフ、デジタルだから使いやすいよ。ユキナが使って」
差し出された機体の重みが指先に伝わり、自然と背筋が伸びた。
「閉会式の写真、撮るんだよね」
「そう。開会式は俺が撮ったから、閉会式はユキナに頼もうかなって」
当然のように言われて、ユキナは一瞬だけ言葉に詰まる。
「責任重大すぎてドキドキする」
そのまま口にすると、和人は小さく笑った。
「はは。俺も撮るし、販売写真はプロのカメラマンが撮ってるから気負わなくて大丈夫だよ。これは学校の記録用だし」
軽く笑った彼の言葉が、緊張を和らげる。
「うん……でも、全くの初心者だし」
「もしまだ一眼が不安なら、コンデジも持って来たけど」
和人はもう一台のカメラを取り出す。
「コンデジ?」
「コンパクトデジタルカメラ。これなら撮りやすいよ」
「じゃあ――今少し練習させてもらって、難しかったら、それ借りてもいいかな」
和人は微笑んで頷いた。
使い方の説明は簡潔で、押しつけがましさがない。その空気感に、ユキナはわずかに肩の力を抜いた。
並んで校庭に出ると、強い昼の日差しが、グラウンドの白線をまぶしく浮かび上がらせていた。
日陰では弁当を広げる生徒たちがまばらに座り、遠くでは道具の入れ替えをする音が乾いたリズムで続いていた。
「あ、紗江だ」
ユキナの視線が一点に留まる。
「友達?」
和人もその先を追う。
「うん。あの、ゆるふわポニーテールの子。備品係なの」
カラーコーンを運ぶ姿は動きに無駄がなく、手際の良さが際立っていた。
「じゃあ、これで写真撮ってあげるよ」
和人は手にしていたフィルムカメラを軽く持ち直す。
「いいの? 嬉しい」
声が少し弾む。
「友達が忙しくなければ」
判断を委ねる言い方だった。
「じゃあ、声かけてくる」
ユキナはそのまま駆け出す。足元の砂が小さく跳ねた。
「紗江ー!」
呼びかけに、紗江は振り向き、額にかかった髪を指で払う。
「ユキナ」
「写真、撮ってくれるって」
息を弾ませたまま言うと、紗江の視線がユキナの後方の和人へ流れた。
「あ、写真部の?」
和人は穏やかな表情のまま、ユキナの少し後ろから歩み寄ってくる。距離の詰め方は一定で、急ぎすぎることもない。
「こちら部長の東和人先輩――そして、この子が、親友の紗江」
「有森です」
紗江が自然に頭を下げ、和人もそれに合わせて軽く会釈した。
「写真部の東です」
簡潔なやり取りのあと、紗江が言った。
「写真部入ったって聞きました。これからユキナをよろしくお願いします」
「こちらこそ」
和人はわずかに間を置いてから笑う。
「……保護者みたいだね」
「紗江はいつも私のお世話してくれるんだ」
「それ、なんか想像つくな」
自然体のユキナと、柔らかい雰囲気の和人を見て、紗江の表情はゆるやかに綻んでいく。
「今大丈夫?」
和人はカメラを軽く持ち上げて見せる。レンズが光を受け、一瞬だけきらりと反射した。
「わあ、ぜひ」
紗江は両手を合わせ、嬉しそうに応じる。
二人は自然と並び、肩の距離をわずかに整える。
和人はカメラを構え、ファインダーを覗く。視界の中で二人の位置が収まるのを、静かに待った。
「撮るよ。3、2、1」
シャッター音が、昼のざわめきの中に小さく落ちる。
一瞬の静止が切り取られ、その場にはほどけた二人の表情だけが残った。
「じゃあ私戻るね。午後も頑張ろうね」
紗江はユキナに手を振り、和人に一礼して持ち場へ戻っていく。ユキナと和人は、その背中を並んで見送った。
「和人、私もこれで何か撮ってみてもいい?」
ユキナはデジタル一眼レフを手にしたまま言う。
「うん。好きなもの撮ってみなよ」
本部席と書かれた白いテントと、その上に広がる青空を画角に収める。
ピントを合わせ、呼吸を一度整えてから、思い切ってシャッターを押す。
小さな音が、確かに指先から伝わってきた。
撮れた、という感覚が遅れて追いつく。ユキナはすぐに背面液晶モニターを覗き込み、そこに映し出された一枚を確かめた。
白いテントの輪郭と、その向こうに広がる空。思っていたよりも明るく、少しだけ白飛びしているようにも見える。
「和人、これ……」
呼びかけると、和人は自然に隣に立った。距離が詰まり、同じ画面を覗き込む形になる。
ユキナはカメラを少しだけ持ち上げた。和人の視線がモニターに落ちる。
「ちゃんと撮れてるよ」
短くそう言ってから、和人はわずかに顔を寄せた。
「ここ、ちょっと明るいのわかる?」
彼の指先が画面の白く飛びかけた部分を示す。
「うん、わかる」
「ここに触れると、少し抑えられるよ。ほら」
「あ、本当だ」
「もっと細かくやるなら、この設定で調整できる」
簡潔な説明に、ユキナは頷く。
「構図はすごくいいと思う。敢えて見切れさせて大きめに画角に入れてる感じも」
和人の声はいつも通りで、穏やかだった。評価も淡々としている。
「ほんと? そこまで深く考えてなかったんだけど」
「それはセンスがあるってことだよ」
「よかった」
「もう一枚、撮ってみる?」
和人が言う。
「うん……今度は、もう少し暗くしてみる」
そう言って、ユキナはカメラを被写体に向けながら、設定をいじる。
和人はそのまま離れず、画面を覗いたまま言葉を添える。
「いいね。露出、もう少し下げてみて」
指示は簡潔で、声のトーンも変わらない。
ユキナは設定を調整しながら、和人に画面が見えるよう、少しカメラを傾けた。
「……これくらい?」
「いいと思う」
モニターを確認しながら、同じ構図にテントと空を収める。さっきよりも光が締まって見える。空の青も鮮やかだった。
指に力を込めて、シャッターを切った。
再びモニターを確認する。
「さっきより、いいかも」
ユキナはそう言って、自然と笑顔になる。
「うん。白飛び抑えられてるし、彩度もはっきりしてる。すごく良くなったよ」
和人はそのまま、少しだけ表情を緩める。
「ユキナ、閉会式もこっちのカメラで余裕だよ」
和人は覗き込んでいた距離から、一歩戻ってそう言った。
「うん。頑張ってみる」
ユキナのカメラを握る手に力がこもる。
* * *
数名のクラスメイトとトラック脇の通路を歩いていた樹は、ふと足を止めた。
無意識に視線を流すと、離れた場所へ目が止まる。
本部席から少し手前の場所に、二人が並んでいた。
ユキナと――
東和人。
近い、と思った。
目を凝らして、ようやく距離が分かる。肩が触れているわけではない。和人が画面を覗き込むために、自然と近づいたような姿勢。
ユキナも見やすいようにわずかに身を寄せていた。
指先で画面を示し、何かを教えている。声までは届かないが、やり取りの流れは見て取れる。ただカメラの説明をしているのだと、頭では分かる。
それでも、その距離を見ているうちに、胸が焼けるような焦燥感が沸き起こった。
ユキナの口元は緩んでいて、緊張でも気遣いでもない、自然にほどけた笑い方だった。見慣れているはずのそれが、妙に遠く感じた。
和人のほうは、落ち着いたまま、距離も表情も一定に保っている。
ユキナがシャッターを切ると、和人はまたすぐに画面を確認するように覗き込んだ。ほんのわずかに、二人の顔の距離が縮まった。
「……」
言葉にならないまま、思考が止まる。
自分といるときは、ああいう顔をしていただろうかと、考えかけて、やめた。このままだと何かが崩れそうだった。
代わりに、別の記憶が浮かんでくる。
『兄妹みたいな感じ』
あの日のユキナの声が脳裏で響く。
グラウンドでは、昼休憩の終了を告げるアナウンスが流れ始めていた。生徒たちのざわめきが、少しずつ戻ってくる。
それでも、視界の中心は変わらない。
彼女の楽しそうな笑顔。
自分の知らない顔ではない。けれど、自分に向けられているものでもない。
ただそれだけの事実が、妙に現実感を伴って迫ってくるのを感じ、樹は視線を切った。
「おい、樹。行くぞー」
「置いてくぞ」
仲間たちに声をかけられても、足が動くまでに、少しだけ時間がかかった。




