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 秋山みどりの休会連絡から3ヶ月が経ったある日曜日、西池袋の雑踏を歩くサトルの姿があった。この先にある教会の演奏会に向かうためである。

 沢田の情報では、その教会では年に2回ほど、信者向けに伴奏曲と譜面を先に提示して、歌いたい人に当日飛び入りで歌ってもらうという変則的なオープンマイクのような催しをしているらしい。

 みどりの母親はその伴奏者に選ばれていたのである。

 

「楽しみだなぁ」

 

 神様からのプレゼントのような抜けるような青空の下、サトルは歩きながら梶山とのこの3ヶ月、特に、最後のレッスンの事を思い出していた……。

 

 

「ありがとうございました!本当に、なんと御礼を言ったらいいか、白髪先生のおかげでちゃんと歌えるようになったんじゃないかと思います!」

 

 達成感に満ちた梶山の表情が、この3ヶ月の成果を物語っていた。

 

「本当に、よく頑張られましたね。キーだけではなく、歌唱全体までしっかり精度を上げられたと思います。それは、私のおかげなんかではなく、日々、トレーニングを続けられた梶山さんの努力によるものですよ」

 

 サトルが用意した音域を拡げるトレーニングは体力的にキツい事を毎日続けなければならないので、精神的にもかなり負荷の大きいものであったが、梶山は見事にそれをやりきり、原曲の高さを余裕を持って歌えるようになっていた。

 

「いえ、先生が居なかったら…あの練習を教えていただかなかったら、絶対に今のようには歌えませんでした。これなら、きっと…」

 

「目的は、叶えられそうですか?」

 

 サトルは最初の体験レッスン以降、梶山がキーにこだわる理由を聞かなかったし、梶山もこの3ヶ月の間、ついにそれを語ることはなかった。

 

「はい!ありがとうございます!先生…あの……」

 

「それは良かった。是非、後悔の無い歌を歌ってくださいね」

 

 何か言いたそうな梶山を遮るように言葉を告げ、サトルは静かにレッスン室を出ていった……。

 

 

 こうして、最後のレッスンが終わったのが先週の話である。

 

『まぁ、確かに、照れ屋さんには言いづらいよね…』

 

 サトルは一人でクスッと笑い、T字路を右へ曲がった。その道の先を見上げると大きな十字架と、異国情緒を感じさせる白い建物が見えた。

 門をくぐり、扉の近くまで歩いて行くと、その前で見覚えのある大柄な男性がもじもじしながらこちらに背を向けて立っていた。

 どうやら緊張で中へ入りあぐねているようである。

 

「早く入らないと、集合に遅れちゃいますよ?」

 

 後ろから、穏やかな中に少し意地悪な音を含んだ口調でサトルが話しかけると、こちらが驚くほどにビクっと身体を震わせて、その男性が振り向いた。

 

「し!白髪先生!えっ!えっ…なんで…?」

 

「10日ぶりくらい、ですかね?」

 

 思いもよらぬ突然の再会に、あたふたする梶山へサトルがにこやかに挨拶した。

 

「はっ!もしかして、みどりですか?いや…そんなはずはない、今日の事も何もみどりには話してないし…」

 

「ふふ、梶山さんのお知り合いの方というのは秋山さんの事だったんですね。お嬢様、ですよね?」

 

 今日のサトルは少し意地悪なのか、答えのわかっている事をあえて聞き直して話させようとしている。

 

「やっぱり、みどりですか!あ…いや、そうです、娘です。もう結婚して子供も居ますし、お嬢様という歳でもありませんが…」

 

「秋山さんが教えてくださったのは、お母様の事でご自身が少し休会される事と、教会の演奏会でお母様が伴奏をされるという事だけです。内容や日程は優秀な受付スタッフが調べておいてくれました」

 

「え?…では、私の事は…」

 

「秋山さんからは何も。というより、梶山さんの正式なレッスンが始まる前から、私、なんとなく気づいていました」

 

「えーっ!?」

 

 サトルは大成功!とばかりにニコッと微笑んだ。

 

 あの日、秋山みどりが休会の手続きをした際、沢田に伝えた一言から、直前に話していた秋山みどりと梶山の母音の響きが重なった。

 さらにそこから、サトルがクラスを引き継いだ当初、古参のメンバーが彼女の事を時折、旧姓の〈梶山さん〉と呼んでいた事を思い出したのである。

 

「私はまだまだ未熟な講師なので、〈博士〉なんて言葉で評価してくださる人はそんなに居ません。それと、体験レッスンで聞いた梶山さんの母音の響きが秋山さんとよく似ておられたので…」

 

「ぼ…母音の響き…?で、では、最初のレッスンから私の身元はバレていたのですか?…せ、先生も人が悪い。一言おっしゃってくれれば………、いや、私の性格じゃ答えないか」

 

「ははは、そうですね。キーにこだわる理由もお話しになられませんでしたし。まぁ、聞いて答えてくださったとしても、私のやることには何も変わりはありませんから」

 

「い、いや、ホントに、申し訳ない…」

 

「でも、なんとなく、いろいろわかってたので遠慮なく、あの厳しいトレーニングを梶山さんに課す事ができました。キーにこだわる動機が奥様にあるのなら、きっとやり遂げてくださるだろうと…」

 

「えっ?それも??」

 

「グランドピアノにトランスポーズはありませんし、譜面のキーを変える要望を事前に出すとなると、持病が悪化しつつある奥様のご負担が増えます。何より、今日の参加自体、奥様にも内緒にしておきたかったのでしょ?」

 

「そ、そこまで…そこまでわかっておられたのですか……。いやはや、まいりました。はい、すべて、おっしゃる通りです」

 

 その時、建物の中から係の人の大きな声がした。

 

「歌唱参加の皆様はこちらへお集まりくださーい!」

 

 それを聞いた二人は揃って、あっ!という顔になり、

 

「梶山さん!ごめんなさい!話し込んじゃいましたね!さぁ、中、入りましょう」

 

「は、はい!」

 

 サトルの謎解きに驚いてすっかり緊張がほぐれたのか、梶山は引き締まった表情で扉を開けた。


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