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「あれ?秋山さん!今日はまた随分とレッスン後のお茶タイムが長かったんですね〜。皆さんのお話が盛り上がったんですか?」
声の主は、ゴスペルクラスの頼れるパートリーダー秋山みどりであった。昼のゴスペルレッスンが終わって既に4時間以上が経っていたので、サトルはロビーに掛かった時計を見てから、少し茶化したような口調で尋ねた。
「ふふふ、そうですね。楽しくて、有難い時間でした」
当たり前の事だが、平日の日中に音楽教室に通える生徒には主婦が多い。みどりのような子育て真っ最中世代から、子育てが落ち着いて全力で趣味を楽しめる世代まで年代幅もかなり広いのだが、そのメンバー達が互いの理解を深める機会の一つが、レッスン後のお茶タイムである。
「へぇ〜、さすがにこんな時間まで盛り上がってたとなると、一体なんの話をされていたのか気になりますね〜、僕への不満かな」
「やだ、とんでもないです!クラスの皆さん、本当に白髪先生に教えていただけてること、喜んでいらっしゃいますよ」
「あら、それは嬉しい」
「違うんです」
思いもよらぬタイミングで褒められ、喜んだサトルの表情とは逆に、みどりの顔が少し曇った。
「実は私、しばらくの間、休会しなきゃいけなくなってしまいまして、それを皆さんにご報告してたんです。ほんとはその後すぐにこちらに戻って、休会の手続きと白髪先生にご挨拶しようと思ってたんですけど、急な報告だったので皆さんの質問攻めにあってしまって…その話をしていたらこんな時間になってしまいました」
「なんと!?」
「でも、理由を説明したら、皆さん本当に親身になって心配してくださったり、ご助言や励ましの言葉をくださったり……素敵な方々ばかりです」
いつも快活でハキハキしたみどりが、淡く微笑みながら、しみじみとした口調で話す様子を見て、サトルは思わず、
「しばらくの間というと、どれくらいの期間なのですか?」
と、極めて気の利かない質問をして、すぐに後悔をした。
「今はまだ…わかりません」
「ごめんなさい…それがわかっていれば、しばらくの間なんて言わないですよね。いつもレッスンで助けていただいている秋山さんの休会に、僕も動揺してるようです」
「いえ、私の方こそ、ご報告が遅くなってしまってごめんなさい」
「その……休会の理由は、お伺いしても良い内容ですか?あ、いや、話しづらければ大丈夫なのですが…、」
「いえいえ、話しづらくなんかありません。実家の母の事です。母には数年前から持病がありまして、それが最近、急に悪くなってきてしまったので、私が実家に行く事が増えそうなんです。父は根っからの仕事人間で介護なんて出来ない人ですし、他の兄弟も近くにいないものですから」
「あ…お母様の事でしたか」
「はい。主人も、家や子供の事は自分がやるから、君はなるべく行ってあげた方がいいって言ってくれたもので…、あ!でも、命に関わるような病気ではないので、白髪先生、そんなに深刻なお顔をなさらないでください」
「あ、そうなんですか?少し安心しました」
みどり本人ではなく、母親の話だった事、さらには命に関わる事ではない、という言葉がサトルの心を少し軽くした。
「はい、7〜8年前に筋ジストロフィーという手足が動きにくくなる病気になって、リハビリと趣味を兼ねてビーズ作りとかピアノとかを始めていたんですけど、最近は日常生活にも影響が出てきてしまったので、それを続けられるのもあと少しだろうって、本人も元気が無くて…」
「好きな事ができなくなるのは、辛いですよね」
「あ、でも今は、何ヶ月か先に、母がよく通っている近くの教会で定期演奏会の歌伴奏をする機会があるみたいで、グランドピアノを弾けるのが楽しみだって頑張ってるようです」
「それは良いですね、歌もそうですけど目標があれば意欲も湧きやすい」
「はい!なので、ここからしばらくは、母の身体と心、両方をサポートできればいいなと思ってます」
「素晴らしいと思います。秋山さんがお休みされるのは、僕はもちろんの事、クラスの皆さんにとっても寂しい限りですけど、秋山さんご自身が後悔の無い時間を過ごされる事が僕の願いですので、心より応援しております」
「ありがとうございます!少し落ち着いてペースがわかったら、必ずまた戻ってきますので、その時は何卒よろしくお願いします!」
みどりはパートリーダーらしい決然とした声と明るい笑顔で挨拶をして、手続きをしに受付へと向かっていった。
音楽普及という理念を掲げ、公益を目指す音楽教室にとっても在籍生徒の維持拡大はレッスンを安定的に提供するための生命線である。
よって、どの教室も、楽しく、そして長く通ってもらえるようなレッスン運営と、未経験者が気軽に始めてもらいやすい雰囲気作りを常に心がけている。
しかし、それでも年間を通せば、教室全体の3〜4%は休会者や退会者が出てしまう。
理由は転勤による引っ越しや、結婚・妊娠など、それぞれの人に起きる人生の岐路がほとんどなので、それ自体は致し方ない事ではあるが、その中でも近年、急激に増えてきているのが、まさしく今の秋山みどりのような〈親族の介護〉である。
日本最大手の音楽教室事業を手掛ける企業が20年ほど前に出した資料によると、その頃、大人の音楽教室に通う年代は20代〜40代が最も多かったが、現在は50代以上、つまり介護が必要な親を持つ世代が圧倒的に多くなってきている。
人口割合の問題はあるにせよ、確実に言えることは、それだけ今の音楽教室は若い世代の心を掴めていないということであり、ここをなんとかしていかなければ近い将来、音楽教室は大きな方向転換を余儀なくされていくだろう。
その大きな歯車の小さな一部であるサトルも無関係ではないし、懸念を認識もしているが、それでもサトルが大切にしているのはやはり、生徒一人一人が後悔の無い時間を過ごしてくれれば、レッスンなどあっても無くても良いという思いである。
なんとなく、ソファに座り直していたサトルに沢田がやってきて声を掛けた。
「秋山さん、手続きして帰られましたよ。10年以上ここに通ってきてくださってた方ですから、休会とはいえ寂しいですね〜」
「ほんとだね、僕がここのクラスを引き継ぐ前から、歳上のメンバー達を元気に引っ張ってこられてたし、僕も随分秋山さんには助けてもらってたよ」
「歌える人が居ないとパートの音取りだけでも大変ですもんね」
「そうだね。でもまぁ、秋山さんに頼りっきりになってたメンバーには責任感も生まれて良い刺激になるかもしれないし、いつか秋山さんが帰ってきた時に、成長したみんなを見せられるかもしれないさ」
「さすが!ピンチをチャンスに変える男、白髪サトル!」
サトルを元気づけるような明るい声で、沢田が景気良く囃した。
「ははは…まぁ、精一杯の強がりさ。しばらくレッスンが大変になるのは間違いない」
「大丈夫!秋山さん、絶対帰ってきますよ!さっきも受付で先生のレッスンの事、褒めちぎってましたから。あんな歌と声の博士みたいな先生、見たことないって!」
「それはまた過分なお褒めの言葉だね、でも、ありがたく受け取っておくよ」
サトルは軽く微笑んでレッスン室に向かおうとしたが、ふと、何かに気づいたように突然、足を止め、沢田を振り返って、
「沢田ちゃん、今すぐじゃなくていいんだけど、少し調べておいてもらいたい事があってさ、頼んでもいい?」




