第006話 人間の初日、肉三キロ
「肉は、食べていい?」
青梅ゲートの管理棟一階。検査を終えたティーラが尋ねると、医師は手元の画面から顔を上げた。
「ええ。ただ、最初は少しずつにしましょう。今の身体が食べられる量も、まだ分かりませんから」
ティーラは頷いた。
隣でロッカも頷いていた。肉を焼いてくれるときと同じ、頼りになる顔だった。
医師が席を外したあと、ロッカは椅子を少し寄せた。
「なあ。さっきの、人間になった話。もう少し聞いてもいいか」
「うん」
水を飲んでから、ティーラは口を開いた。長く話そうとすると、まだ舌が引っかかる。けれど、伝えたいことはあった。
「ロッカがいなくなって、文字が出た。ボクも、一緒に帰れるって」
あの光の壁が消えたあとも、ティーラは川原を離れなかった。何もない場所へ何度も鼻を押しつけていると、目の前に文字と絵が浮かんだのだ。
「人間に、なれば」
「おまえにも、あの文字が見えたのか?」
「うん。二人で、約束してたからって」
ロッカは自分の手を見た。
「……小さい頃の、〈原初の契〉か」
ティーラは頷いた。文字は、ロッカが図鑑を開きながら教えてくれた。読めないところもあったが、人の姿と門の絵を見れば、どうすればいいかは分かった。
「変わるまで、三日かかるって。それで、待ってた」
「そうか。だから、今日……」
ロッカは膝へ手を置いた。しばらくしてから、もう一つ聞いた。
「元の身体には、戻れるのか?」
「戻れない」
その手が止まった。
「選ぶ前に、書いてあった。でも、こっちへ来られるから」
ティーラは、ロッカの袖をつかんだ。
「ロッカと、いたかった」
ロッカは口を開きかけ、閉じた。それから、袖をつかむ手に触れた。
「……そっか。自分で、決めたんだな」
「うん」
「じゃあ、こっちでも一緒に暮らそう。困ったことがあったら言えよ」
ティーラは大きく頷いた。
ほどなく、ゲートを調べていた職員が部屋へ来た。
「お二人が帰還したときだけ、接続先が森に切り替わっていました。普段の行き先は洞窟なので、入り直しても戻れなかったようです」
ロッカは窓の外のを見てから、隣のティーラを見た。
「なるほどな。あそこで待ってて、よかった」
外出してもいいと言われると、ミカが帰還者用の生活用品を受け取ってきた。服と靴、それからロッカの髭を剃る道具も入っている。
ティーラは、ポケットの大きい紺色の上着を選んだ。指を入れてみると、手首まですっぽり隠れた。
ズボンも靴も、ミカに見てもらって身体に合うものを選んだ。
「それ、気に入った?」
ミカに聞かれ、頷く。
ロッカは洗面室へ行っていた。戻ってきたとき、ティーラは立ち上がった。
顎も頬も、よく見える。
長い髪はいつものように後ろで束ねているが、身体には黒いシャツと丈夫そうなズボンを着ていた。
「どうだ。変じゃないか?」
ティーラは近づき、頬に触れた。
指を動かしても、さっきのようには引っかからない。
「痛くない」
「だろ。俺も、こんなに剃ったの初めてだ」
頬の古い傷を避けて撫でると、ロッカが少しくすぐったそうに笑った。
ミカも顔を覗き込んだ。
「うん。そっちのほうがいいね」
「髭がないと、寒いな」
ロッカが上着の前を合わせたので、ティーラも自分の上着を引っ張った。
着替えた皮の服は、ロッカが二階の部屋へ置きに行った。戻ってきたときには、図鑑の入った鞄だけを持っていた。
槍と斧は職員に預けたまま、三人で管理棟を出た。
ミカの肩の横には、レンズを伏せたポチが浮いていた。
昼食は、歩いて十分ほどの焼肉屋で食べることになった。
あの竜を倒したS級の二人から、ロッカへお礼の食事券が届いていたのだ。
「好きなものを食べてください、だって。ちゃんと使おうね」
ミカが券を見せると、ロッカは頷いた。
「あとで、礼を言いに行こう」
店の入口で、ティーラは一度立ち止まった。
焼けた肉の匂いがする。
開いた扉へ近づき、頭の上を確かめた。そのまま通っても、何にもぶつからなかった。
先へ入ったロッカが振り返る。
「来たな」
ティーラは笑って、その隣へ行った。
窓際の席へ案内され、メニューを見ると、皿に載った肉の写真が並んでいた。
ロッカが店員へ声をかける。
「肉、三キロ頼めるか?」
ミカの手が止まった。
「三人で?」
「いや、まずティーラの分」
「まず、じゃないんだよ。少しずつって言ってたよね?」
ティーラは写真を覗き込んだ。三キロの盛り合わせは、いつも食べていた肉の塊より、ずっと小さく見えた。
「これ、食べたい」
「……分かった。三人で食べよう。焼くのは一皿ずつね」
ミカが持ち帰れるか店員に尋ねてから、注文してくれた。
運ばれてきた皿には、薄く切られた肉がきれいに並んでいた。
ロッカが網へ載せると、じゅう、と音がした。
ティーラは少し身を乗り出した。
「待て待て。まだ焼けてない」
その声で、思わず座り直した。
火を使えるようになってから、何度も言われてきた言葉だった。
やがて、ロッカが焼けた肉を皿へ置いてくれた。箸ではうまくつかめなかったので、ミカに頼んでフォークを借りた。
刺して、口へ運ぶ。
噛んだ途端、ティーラは皿を見下ろした。
「……うまい?」
ロッカに聞かれ、何度も頷く。
飲み込んでから、ようやく答えた。
「もう一枚」
「はいよ」
次の肉が網へ載る。
ミカも笑いながら、自分の分を焼き始めた。
「そういえば、ティーラの『ボク』って、ロッカから覚えたの?」
「うん。小さいロッカ、そう言ってた」
ティーラはロッカを見た。
「『ぼくがいるからね』って」
肉を返していた手が止まる。
初めて会った夜の声は、今でも覚えている。外で何かが鳴くたびに震えていたのに、ロッカはティーラの背中を撫でてくれた。
「ボクも、言いたかった。ロッカが泣くとき」
ロッカはしばらくティーラを見ていた。それから、網の上へ目を戻す。
「……あの夜も、そう言ってくれてたのか」
ミカが小さく笑った。
「声でも聞けるようになったんだね」
ティーラは頷き、焼けた肉を一枚、ロッカの皿へ移した。
ところが、二皿目の途中で、肉を口へ運ぶ手が止まった。
まだ食べたい。目の前の肉も、いい匂いがする。
けれど、腹が苦しい。
そっと腹へ手を当てると、ミカが顔を覗き込んだ。
「お腹いっぱい?」
「……小さい」
「うん。今はそのお腹の分だけでいいんだよ」
ロッカが、まだ肉の載っている皿を自分の方へ寄せた。
「続きは明日にしよう。明日も食える」
ティーラは少し迷ってから、フォークを置いた。
残った分は、店で焼いて包んでもらうことになった。ミカが管理棟へ連絡すると、冷蔵庫も使わせてもらえるという。
食事券で会計を済ませるミカを見て、ロッカが自分のポケットを探った。
何も入っていない。
「今度は、自分の金で食いに来たいな」
ティーラも、空っぽのポケットへ手を入れた。
「ボクも」
「二人とも、探索者の仕事する?」
ミカが尋ねた。
「ダンジョンを調べたり、魔物を倒したり。お金をもらって、ご飯代も、服代も払えるよ」
「どこで、なれるんだ?」
「立川。探索者協会の東京支部。明日、一緒に行こうか」
ロッカがティーラを見た。
ティーラは机の上へ出された手を、三回たたいた。
「ボクも、いるからね」
ロッカが笑い、その手を握った。




