第004話 ただいまを言う相手
管理棟の相談室で、ロッカはミカと並んで座った。
職員が向かいの席へ着き、机に書類を置く。一緒に聞いてくれと頼むと、ミカは隣に残ってくれた。ポチは彼女の鞄の上に下り、レンズを伏せている。
「お父さまの誠司さんと、お母さまの由紀さんについて、お伝えします」
ロッカは膝の鞄を抱え直した。
「お二人とも、二〇二六年十月二十日の災害で亡くなられています」
廊下で、何かを運ぶ音がした。
車輪が床の継ぎ目を越える音を聞きながら、ロッカは職員の次の言葉を待った。
けれど、職員は黙っていた。
「……二人とも?」
「はい」
「俺が、いなくなった日に?」
「その日のうちに、地下通路で大きな崩落が起きました。お二人は、そこに残っていらしたそうです」
机の上へ目を落とした。
父の名前と、母の名前があった。父は三十七歳。母は三十四歳。
母の年齢を、もう一度見た。
今の自分より、一つ若かった。
「父さんも、あそこにいたのか」
「最初の崩落を聞いて、近くの仕事先から来られたと記録されています」
ロッカは頷いた。
窓から、青梅ゲートが見えた。
帰ってきたら、まず母にティーラを紹介するつもりだった。驚くだろうけれど、噛まないから大丈夫だと教えたかった。
父には、洞穴の雨漏りを直した話をしようと思っていた。
他にも、いくらでもあった。
三十年もいたのだから、一日では話しきれないと思っていた。
「……あの」
ミカが何か言いかけたが、ロッカの顔を見て口を閉じた。
ロッカは鞄を開け、図鑑を出した。
縫い直した表紙をめくる。隅の名前は、明るい部屋でよく見なければ読めないほど薄くなっていた。
『くりゅう ろっか』
母は字を書くとき、図鑑を抱えたがるロッカに、ちょっと待ってと言った。
名前を書けば返してもらえるからね。
そう言って、一文字ずつ書いてくれた。
「なくさなかったんだ」
ロッカは、その名前をミカに見せた。
「ずっと、持ってた。雨の日も濡らさないようにして、破れたら縫ってさ」
「……うん」
「持って帰ってきたんだけどな」
表紙へ水が落ちた。
慌てて拭いたが、次も落ちた。手の甲で目を擦ると、膝の図鑑が滑りそうになった。
ミカが両手で支えてくれた。
「ごめん。濡れるから」
「私、持ってるよ」
図鑑を預けた途端、ロッカは顔を覆った。
「母さん」
呼んでも返事がない夜は、何度もあった。
けれど、帰れば会えると思っていた。
「……父さん」
喉が詰まって、続きが出なかった。
ミカは図鑑を閉じずに、膝の上で持っていてくれた。
どれくらい経ったのか、ロッカには分からなかった。
冷めたお茶を一口飲んでから、机の書類へ目を戻した。職員は急かさず、向かいで待っていた。
「あそこに、残ってたって……二人で、何してたんだ?」
職員が、書類を一枚めくった。
「通路の非常口が、歪んで開かなくなっていたそうです。誠司さんが工具を使って開け、由紀さんが、取り残された方をそちらへ誘導されています」
父の工具箱を思い出した。
重くて持ち上げられずにいると、父はいつも片手で持っていった。
「お隣に住んでいた女の子も、その中にいたと」
「……隣の?」
「当時、八歳です。避難した方々のお話では、由紀さんは、六歌君の名前を呼びながら通路を行き来していたそうです」
ロッカは、お茶のカップを机に置いた。
母の手を放した場所を、まだ覚えていた。
足元が崩れた。一緒に落ちると思ったのに、母の指だけが遠くなった。
あのあとも、探してくれていた。
「お二人が開いた非常口から、二十一人が外へ出ています」
職員が、当時の記録をロッカの方へ向けた。
名前が並んでいた。知らない大人も、子供もいた。
「この人たちは、助かったのか」
「はい。全員、生きて通路を出られています」
ロッカは上から、一人ずつ読んだ。
父と母の名前は、その中にはなかった。
最後まで読んでから、もう一度、最初へ戻った。
相談室を出る頃には、窓の向こうが夕焼けになっていた。
ロッカは図鑑を鞄へしまい、ミカと待合室へ戻った。
受付脇の台には、槍と牙斧が置かれたままだった。職員から滞在中の保管を申し出られ、頼むことにした。図鑑の入った鞄だけは、肩にかけておいた。
入口近くの長椅子に、脚を包帯で巻かれた若い男が座っていた。
竜に追われて、ゲートから逃げてきた探索者の一人だった。
「だから、平気だって。今、迎えが来るの待ってる」
端末を耳へ当て、困った顔をしている。
「うん。分かった。病院にも行く。……飯? 食べるよ。残しといて」
通話を終えた男がロッカに気づき、立ち上がろうとした。
「あ、さっきは、本当に――」
「座ってろよ。脚、痛むだろ」
男は浮かせかけた腰を下ろし、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。もう駄目かと思ってました」
「……誰と話してたんだ?」
「母親です。職員さんが連絡してくれて。怪我したって言ってるのに、晩飯はどうするんだって」
男は少し笑った。
「いつも、それなんですよ」
ロッカも口元を緩めようとしたが、うまくいかなかった。
「そっか」
長椅子の背へ手を置いた。
「帰って、食ってやれよ」
「はい。今日は、おかわりします」
ミカが借りてくれた部屋へ向かうため、ロッカは廊下へ入った。
男から見えなくなってから、壁に手をついた。
「ロッカ?」
「……あいつ、帰れるんだな」
「うん。もう一人も、命に別状ないって。病院に運ばれたよ」
「あの、迷子の子は?」
「お母さんと帰った。奥に避難した人も、皆、無事だよ」
ロッカは顔を伏せた。
さっきの男の声が、まだ聞こえていた。
残しといて。
家に帰れば、自分の分の夕飯がある。
「……よかった」
息と一緒に、声が漏れた。
「よかったなあ」
また涙が出た。
母には会えない。父にも。
それでも、あの男まで帰れなくならなくてよかった。
母と手をつないで帰った子が、今日も家で眠れるなら、あのとき外へ出てよかった。
ロッカは壁に額をつけた。
父と母が逃がした二十一人も、あんなふうに、誰かに帰ると伝えただろうか。
「ミカ。あの録画、消さないでくれ」
「うん。残しておく」
「父さんと母さんにも、見てもらいたかったな」
ミカは頷き、ロッカが顔を上げるまで隣にいてくれた。
その夜から、ロッカは管理棟二階の空き部屋を借りた。
窓から、青梅ゲートが見える。調査が続く間だけでも、ここで待たせてほしいと職員に頼んだ。
ミカが買ってきたおにぎりは、袋から出すと、まだ少し温かかった。
ひと口かじって、ゆっくり飲み込む。
「食べられそう?」
「……うん」
ミカも隣の椅子へ座り、自分の袋を開けた。
ロッカは、もうひと口食べた。
翌日も、その次の日も、職員とゲートの記録を調べた。ミカも毎日来てくれたが、森へ戻る方法は見つからなかった。
夜は窓際へ椅子を寄せ、明かりの照らされたゲートを眺めた。
ティーラが最後にたたいた、三回の合図を思い出す。
あいつは強い。今頃、残った肉を腹いっぱい食べているはずだ。
帰ってきたら、話さなければならないことができた。
母には、紹介できなくなったことも。
ロッカは窓の下へ手を置き、三回たたいた。
「待ってるからな」
帰還から三日後。二〇五六年十月二十三日の朝。
部屋の扉が、慌ただしく叩かれた。
「九龍さん。起きていらっしゃいますか」
ロッカは椅子から立ち上がり、扉を開けた。
職員が息を弾ませていた。
「ゲートの様子が変わりました。向こうの洞窟が見えなくなっています」
「……洞窟が?」
「はい。三日前、あなたが帰ってきたときと同じ光です」
ロッカは鞄をつかんだ。
「ティーラ……!」
職員と廊下を走り、階段を駆け下りる。
三日前には、迎えに戻れなかった。
今度こそ。
ロッカは一階の扉へ手を伸ばした。




