第022話 S級の私が止めても、二人は振り返らない
「紬さん。聞こえますか」
ミカさんの声が近い。
頷こうとすると首が痛んだ。目を開けると、木の葉の向こうに青い空が見える。東屋を離れて、この木陰へ運んでもらったんだった。さっき橋が壊れた音も、ずいぶん遠くのことみたいだった。
「……聞こえてます」
「よかった。先生にも、そのまま声を聞かせてください」
先生。外にいるお医者さん。航が呼んでくれた人たちが、私をそこへ連れていこうとしている。
私は、まだ生きている。
少し顔を横へ向けるだけで、二人の靴が見えた。上着を掛けてもらい、木の根元に並んでいる。
さっきまで、あの二人の話をしていた。焼肉のことと、靴紐のこと。出発前に聞いた、何でもない会話を思い出していた。私も、そのときは笑っていた。
六人で帰れると思っていた。
「水、まだ残ってます。使ってください」
「ありがとう。ここに置いてもらえますか」
額に包帯を巻いた桐野悠人が、真島の水筒の蓋を閉めた。
みんな、よく動けるな。
自分だって怪我をしているのに、私のそばへ来てくれる。南雲も、吊った腕をかばいながら救急袋を寄せていた。
私は何もしていない。ここへ寝かされて、手当てをしてもらって、二人の顔に上着を掛け直してくれる手を見ているだけだ。
『姉ちゃん、聞こえる?』
「……聞こえるよ」
『さっき、返事なかったから』
少し黙るだけで、こんな声にさせてしまう。
昨日、最後につないだときは、もっと普通に話していた。ボスを見つければすぐ終わるからと、私が言った。
航は気をつけてと言った。
大丈夫だと返した。
「ごめんね、航」
『それ、帰ってきてから聞く』
返事が早かった。
『だから、今は聞こえたら返事してよ』
「……うん」
帰ってきてから。まだ、そう言ってくれるんだ。
私は隣の二人を見た。こんなふうに、帰ってくるのを待っている人がいる。その人たちに、私は何と言えばいいんだろう。
S級だから大丈夫だと、みんなに言っていたのに。
「担架、一つですよね」
南雲の声だった。
「紬さんを運んだら、あの二人は……」
「帰れるようになったら、何回でも運ぶよ。先に紬を帰そう」
槍を持っていた男の人が答えた。
さっきから、ほとんど何も言わなかった人だ。木陰に並んだ二人を、じっと見ていた。
「俺もいる。二人とも、置いてはいかねえ」
大きな男の人も言った。
運ぶつもりなんだ。私だけじゃなく、あの二人も。でも、その前にやらなければいけないことがある。あの鳥を倒さなければ、誰も帰れない。
私が空へ上がったとき、あの鳥はまだ仲間を狙っていた。横から斬れば、こっちを向かせられると思った。
そこまでは、できた。
次の一撃を避けられなかった。
石柱にぶつかった後は、起き上がることもできなかった。仲間を逃がすために飛んだのに、倒れた私を運ぶために、みんなが戻ってきた。
誰かを残していけないのは、みんなも同じだったんだ。
「あなたたち、等級は……?」
ミカさんが私を見た。
「F級です。私たち、全員」
F級。聞き間違いかと思った。でも、言い直してはくれなかった。
あの鳥の映像を見たんでしょう。私が負けたところも。それなのに、どうして入ってきたの。
「ミカ。ここで待っててくれ」
男の人が鞄を下ろした。
「ロッカ、二人だけで行くの?」
「うん」
ロッカ。そう呼ばれた人は、隣にいる女の子へ顔を向けた。
「ティーラ。この小さい島、全部頼めるか」
「うん。みんな、ここにいて。鳥が来たら、ボクが止める」
全部。この子一人に、そんなことを頼むの。
空からも来る。森の中へ逃げても、追ってくる。夜の間も、みんな交代で見張ってくれていた。それでも、誰かが目を閉じるたびに怖かった。それを、そんな短いやり取りだけで。
「俺の槍と斧も、使っていいから」
ロッカという人が腰の斧を渡すと、ティーラという子は足元の袋の横へ置いた。持っていた槍の布を外し、白い刃を確かめている。
「ボク、槍を使う」
「頼む」
誰も、強がっているようには見えなかった。
ミカさんも、二人で倒せるわけがないとは言わない。預かった鞄を脇へ置き、丸いカメラを手元へ呼び戻していた。
「ポチは、ここに残してくれ。狩りは俺たちでやる」
「カインさんと話せなくなるよ?」
「うん。こっちを見ててもらえるか」
『分かった。ミカ、何かあればすぐ知らせろ』
「はい」
外から聞こえた男の人の声も、二人を止めなかった。
何をするつもりなんだろう。
あの鳥が下りてくるのを待つのか。それとも、橋の向こうまで追うのか。
近づけば翼に打たれる。待っていても、上から襲ってくる。
駄目だと伝えたい。私が動ければ、少なくとも一緒に行けるのに。
少し腕をつくだけで、息が詰まった。
「鷹宮さん、動かないでください」
ミカさんの手が肩へ添えられた。
分かっている。いまの私は、ついていっても運んでもらう人が増えるだけだ。
ロッカという人が、私のそばへしゃがんだ。
「名前、教えてくれないか」
何のことか分からず、その顔を見た。
「この二人の」
隣へ目を向けた、その声で分かった。
名前。さっきから、頭の中で何度も呼んでいた。返事が聞こえてきそうで、でも声に出せなかった名前だ。
「……成瀬、修平」
槍のそばに寝かされた人を見た。
「そっちは……真島大吾」
「成瀬。真島」
ロッカが二人の名を繰り返した。
成瀬の槍を手に取る。刃の根元にある、左右の短い突起を見ていた。
「これなら、引っ掛けられるな」
成瀬は、その槍をいつも自分で手入れしていた。みんなの荷物を見て回ってから、自分の分を始めるから、最後まで道具を広げていることが多かった。
昨日も、そうだった。
「成瀬。槍、借りるぞ」
返事がないことを、分かっているはずなのに。
大きな男の人も、真島の斧を取った。布を巻いた柄を握り、欠けた刃を見ている。
「真島。俺には、こっちを貸してくれ」
真島なら、きっと貸す。返せよと言いながら、先に刃を拭いてやると思う。そういうところを、私は知っている。
知っていたのに、守れなかった。
「……それ、戻してもらえますか」
桐野の声だった。真島の水筒を抱えたまま、斧を見つめている。
「家へ、持って帰ってやりたいんです」
「おう。二人と、一緒にな」
二人と、一緒に。この人たちは、まだ六人を連れて帰るつもりでいる。生きている人を運ぶだけでも大変なのに、二人も、使っていた道具も、何も置いていくと言わない。
「……戻ってきてね、二人とも」
ミカさんが言った。
「ああ。迎えに戻る」
ロッカが立ち上がった。
成瀬の槍を肩へ担ぎ、大きな男の人と並ぶ。
「ヴィクター」
「ああ」
「狩るぞ」
その言い方が、あまりに普通だった。あの鳥を見てきた人の声とは思えなかった。でも、笑ってもいなかった。
二人が、木陰から歩き出した。
「無茶よ」
やっと、それだけ言えた。
声が届いたかどうかも分からない。二人は振り返らず、森へ向かっていく。
戻ってきてほしかった。私たちを迎えに。あの二人に、武器を返すために。
遠ざかる二人の背中が、あの鳥よりも大きく見えた。




