第002話 三十年前の迷子
「ここは青梅ダンジョン。入口のところだよ」
ミカは男のそばへ駆け寄った。背後のゲート越しに、さっきまで立っていた広場が見える。まだ十歩も進んでいない。
前には岩の壁があり、洞窟はその脇で曲がっていた。土も木もなく、奥からひんやりした風が吹いてくる。
「俺がいたのは、恐竜の森だ。ここから出てきたんだろ?」
「えっ、恐竜? うん。でも、普段このゲートから入れるのは、この洞窟なの」
男は振り返り、光の輪と洞窟を見比べた。
「……ティーラ!」
曲がり角の向こうへ声を張った。返事はなく、声だけが岩の壁に跳ね返ってきた。
槍を持つ腕が、ゆっくり下がる。
「さっきまで、一緒だったんだ」
ミカは男の顔を見た。さっき柵に当たった槍にも、大きな牙がついている。
「入口を調べてもらおう。外の人に、どこから来たのか話してみて」
「戻る方法、分かるかな」
「私じゃ分からない。だから、一緒に聞こう」
男はしばらく洞窟の奥を見ていたが、やがて頷いた。
「……頼む」
台車を押す探索者たちの後ろについて、二人もゲートを出た。
外では、さっきの焦げた盾を持つ探索者が職員へ話していた。
「二層の通路だ。壁が真っ黒になってる。あんなの、昨日はなかったぞ」
「確認の班を向かわせました。奥への入場は止めています」
職員は無線へ返事をすると、ミカたちの方へ来た。救護員も一緒だった。男の腕から血がにじんでいるのを見て、まず管理棟で傷を見せてほしいという。
ミカは男と並んで、広場を戻った。ポチも肩の横へついてくる。
「私、瀬戸美香。ミカって呼んで」
「九龍六歌。ロッカでいいよ」
「ロッカ。今、何歳?」
「三十五、くらいだと思う。今は何年だ?」
「二〇五六年」
「……そうか。三十年いたのか」
「三十年?」
「五歳だったんだ。恐竜の森に落ちたときは」
ミカは言葉に詰まった。ロッカは管理棟の入口で足を止め、遠くの家並みを見ている。
「母さんたち、元気かな」
管理棟の待合室には、長椅子と受付があった。窓の向こうには、広場とゲートが見える。
受付脇の机で、救護員が膝と腕の擦り傷を洗い、ガーゼを当ててくれた。ロッカは治療の邪魔になる槍と牙斧を、机のそばの台へ置いた。
「腕に力は入りますか」
「入る。少し使いすぎただけだ」
「何か持ち上げたんですか?」
「ブラキオサウルスの足」
救護員の手が止まった。ミカは隣の椅子へ座った。
職員が水のボトルを渡し、机の向こうで端末を開く。
「お名前、生年月日、以前住んでいた住所を教えていただけますか」
ロッカは自分の名前と誕生日を答えた。住所も途中までは言えたが、番地で止まった。
「二つ並んでたんだけど、二と七だったかな。家の前に、でかい桜があった」
「ご両親のお名前は覚えていますか」
「父さんが誠司。母さんが由紀」
職員が入力を続けた。ロッカは水を飲み、肩のそばへ来たポチを見上げる。
「そいつは、犬なのか?」
「ポチ? 私の撮影ロボ。カメラがついてて、勝手に飛ぶの」
「水はいらないんだな」
「いらないよ」
ロッカは差し出しかけたボトルを、自分の膝へ戻した。
ミカが笑いそうになったとき、職員の画面が切り替わった。
「記録が見つかりました。二〇二六年十月二十日、青梅市内で行方不明。当時五歳」
学校で習った日付だった。
世界中に初めてダンジョンが現れ、当時の全人類が〈身体強化〉を手に入れた日。
「ロッカがいなくなったの、ダンジョンができた日だったんだ」
「あの文字、俺だけに出たんじゃなかったのか?」
「うん。その日に皆がもらって、私たちは生まれたときから持ってる」
「……そうだったのか」
職員が画面をこちらへ向けた。
恐竜の図鑑を抱えた、小さな男の子が写っていた。青いシャツを着て、カメラに図鑑を見せようとしている。
ロッカが鞄から図鑑を出した。
表紙をつなぐ縫い目。擦り切れた角。写真の子が持っているものと、同じ恐竜の絵が描かれていた。
「母さんが撮ったんだ。これ、もらった日に」
表紙を開く。内側の隅に、薄くなった文字があった。
『くりゅう ろっか』
「名前、書いてもらった。なくさないようにって」
指で隅を押さえ、職員へ見せる。
ミカは写真とロッカを見比べた。頬に傷があって、髪も髭も伸びている。それでも、図鑑を持つ顔が、写真の子と重なった。
「ご家族の情報も一致しています。引き続き確認しますが、帰還された方として保護の手続きを進めます」
「母さんたち、ここに住んでるのかな」
「担当が調べています。分かり次第、お伝えします」
ロッカは頷き、図鑑を閉じた。
「その前に、ティーラを迎えに戻りたい。あのゲート、恐竜の森につなげられないのか?」
職員は窓の向こうへ目をやった。
「今つながっているのは、先ほど見た洞窟です。恐竜? の森からこちらへ出てきた記録は、これまでありません」
「じゃあ、俺はどうやって帰ってきたんだ?」
「ゲートの記録を調べます。森に残っている方についても、教えてください」
「ティラノサウルスだ」
ミカはロッカを見た。
「……ティーラって、人じゃないの?」
「言ってなかったか?」
「相棒まで恐竜だとは聞いてない」
「そっか。悪い」
ロッカは慣れた手つきで図鑑を開き、ティラノサウルスの絵を指さした。
「これ。小さい頃に足を挟まれててさ。助けたら、ついてきたんだ」
「三十年間、この子と?」
「ああ。俺が獲物を取り逃がしても、あいつが捕まえてくれた。一緒に食って、寝て、ずっと暮らしてた」
「ほかに人はいなかったの?」
「見たことないな」
ロッカは絵の上に置いた指を引いた。
「強いから、今すぐどうにかなるとは思わない。でも、迎えに来るって約束したんだ」
職員は頷き、調査の担当へ伝えると答えた。
待合室で待つように言われ、ミカはロッカと机を離れた。
受付の前で、小さな男の子が泣いていた。職員がそばにしゃがみ、声をかけている。
「お母さんから連絡が来たよ。今、ここへ来るからね」
泣きながら歩き出そうとした子が、ロッカの前で止まった。
獣の皮と、傷のある顔を見上げている。
ロッカは少し離れた長椅子へ座った。鞄を足元に置き、自分の隣を三回たたく。
とん、とん、とん。
「母さん待つなら、ここ空いてるぞ」
男の子は動かなかった。
「俺も待ってるんだ。座っとかないと、母さんが来たとき見つけにくいだろ」
ロッカはそれだけ言って、窓へ目を向けた。
しばらくして、男の子が長椅子へ近づいた。端に腰をかけ、濡れた頬を袖で擦る。
ロッカは鞄から図鑑を出した。
「恐竜、好きか?」
小さく頷く。
「どれが好きだ?」
「……ティラノ」
「俺も」
図鑑を二人の間に置くと、男の子が覗き込んだ。
「これ、つよいんだよ」
「うん。知ってる」
男の子の指が、頁をつなぐ縫い目に止まった。
「ここも、やぶれてる」
「ああ。木に引っかけてな。骨で針を作って、蜘蛛の糸で縫ったんだ」
「蜘蛛?」
「そう。おっきい蜘蛛がいたんだ。小さい恐竜を食っちまう」
「うそだよ」
男の子は笑いながら縫い目を指でなぞった。
ほどなく、廊下から母親が駆けてきた。子供の名を呼び、長椅子の前でしゃがみ込む。
「ここにいたの。よかった……!」
男の子が母親へ抱きついた。母親も背中へ腕を回し、何度も頭を撫でる。
ロッカは図鑑を引き寄せ、二人が抱き合える分だけ横へずれた。
母親が礼を言い、手をつないで受付へ向かう。男の子は一度だけ振り返り、小さく手を振った。
ロッカも手を上げた。
その手を下ろしてからも、しばらく二人を見送っていた。
ミカが隣へ座った。
「あの子と同じくらいだったんだね」
「……うん」
ロッカは図鑑を鞄にしまい、窓の向こうのゲートを見た。
「すぐ迎えに行けると思ったんだけどな」
「戻る方法、私も一緒に聞くよ」
「ありがとう、ミカ」
そのとき、天井から警報が鳴った。
『ダンジョン内で緊急事態が発生。見学者は広場を離れてください。館内の方は、職員の指示に従って奥へ移動してください』
窓の向こうで、ゲートから探索者が走り出した。その一人を職員が支えている。
ポチがミカの肩へ寄った。
「ミカさん、窓から離れてください」
ロッカが立ち上がった。
直後、窓ガラスが震えた。
ゲートの向こうから、大きな鳴き声が響いた。




