第001話 ここ、日本か?
五歳の九龍六歌は、ブラキオサウルスの脚を木だと思った。
見上げると、その上には山のような胴体があった。長い首が木々の間を伸び、頭はずっと高い枝から葉を食べている。
「……ブラキオサウルス?」
誕生日にもらった図鑑で、何度も見た恐竜だった。けれど、歩くたびに地面が揺れるなんて書いていなかった。
長い首が曲がり、小さな目がこちらを向く。ロッカは図鑑を抱きしめた。
さっきまでは母と、東京の青梅にある地下通路を歩いていた。床が崩れ、青白い光に呑まれて、気づいたらこの森にいた。
二〇二六年十月二十日。ロッカは母の声を探していた。
落ちた直後、目の前に文字が浮かんだ。
【スキル〈身体強化〉を獲得しました】
意味も分からないうちに、それは消えた。
「おかあさん……」
ブラキオサウルスが一歩近づく。ロッカは走った。木の根につまずいて膝を擦りむき、泣きながら立ち上がった。図鑑だけは放さなかった。
ようやく岩の陰へ座り込んだとき、小さな鳴き声が聞こえた。
木の根に、茶色い生き物が挟まっていた。大きな頭と短い前脚。口の中には、尖った歯が並んでいる。
「ティラノサウルス……?」
赤ちゃんだった。まだロッカより小さい。近づくと歯を見せたが、右の後ろ脚が根に押さえられて動けないらしかった。
「待ってて。助けるから」
ロッカは石で土を掘った。指は泥だらけになったが、緩んだ根を両手で持ち上げると、恐竜は自分で脚を抜いた。
噛まれると思って目をつぶった。けれど、触れたのはぬるい舌だった。
「……噛まないんだ」
恐竜は後をついてきた。夕方、岩山の下に水の湧く洞穴を見つけた。水筒を満たし、二人で入口へ座った。
「ティーラって呼んでもいい?」
恐竜が顔を上げる。
「ティラノサウルスだから、ティーラ」
小さな頭が胸へ押しつけられた。ロッカは少し笑ったが、暗くなると、また母を呼んで泣いた。
ティーラは脇で丸くなっていた。ロッカはその背中を三回たたいた。眠れない夜、母がしてくれたように。
とん、とん、とん。
「だいじょうぶ。ぼくがいるからね」
言ったそばから、涙が落ちた。
ティーラが顔を上げ、短い前脚を伸ばした。小さな爪がロッカの膝へ触れる。
とん、とん、とん。
目の前に、青白い文字が浮かんだ。
【特殊スキル〈原初の契〉を獲得しました】
読めない漢字だった。ロッカが目を擦っている間に、文字は消えた。
ティーラがもう一度、膝をたたく。
ロッカは小さな身体を抱き寄せた。外では何かが鳴いていたが、今夜はここにいられそうだった。
それから三十年後。ロッカは、森の川原で牙の槍を握り直していた。
「あれなら、冬の分まで足りるな」
浅い川の向こうで、ブラキオサウルスが水を飲んでいる。四本の脚は太い木ほどあり、腹の下をティーラが通れそうだった。
雪が降る前に、ティーラの分まで肉を蓄えておきたかった。洞穴の前には、干すための棚も増やしてある。
隣から、ぬるい息がかかった。十三メートルに育ったティーラが頭を下げ、ロッカの手元をのぞき込む。口の端から、よだれが垂れていた。
「まだだぞ。おまえ、昨日みたいに先にかじるなよ。追いかけて、夕飯が夜中になったんだからな」
鼻先で胸を押された。ロッカは一歩下がり、その鼻を押し返す。
「はいはい。俺が転んだのも悪かった」
ティーラは口を閉じた。
三十五歳になったロッカは、長い髪を革紐で束ねていた。獣の皮で作った服には継ぎ当てがあり、肩の鞄には、何度も縫い直した図鑑が入っている。
力と体の丈夫さを増す〈身体強化〉も、三十年鍛え続けた。今では自分より大きな岩を持ち上げ、住処の風よけに積んでいる。
ロッカはティーラの首を三度たたいた。
「俺が前に出る。おまえは後ろへ回れ」
彼女が首を起こすのを見て、ロッカは川へ入った。水は膝より下。底の岩を踏み、最後の二歩を大きく跳ぶ。
ブラキの正面へ着地した瞬間、前脚が持ち上がった。横へ跳ぶと、さっきまで立っていた場所に脚が落ち、岩が割れた。飛んだ破片が袖を裂く。
ロッカは前脚へ槍を突き、すぐに引き抜いた。
ブラキが追ってくる。その間に川を渡ったティーラが、後ろ脚へ食いついた。
鋭い鳴き声が響く。振り向こうとしたブラキの尾を、ティーラが身を低くして避けた。
「こっちだ!」
ロッカは槍の柄で脚を叩いた。長い首がこちらへ戻ると、槍を背中の革帯へ差し、平らな一枚岩へ乗った。
川下の岸は、水を含んだ柔らかい土になっている。あそこへ倒せれば、ティーラも下敷きにならずに済む。
ロッカは腰を落とした。頭上で、巨大な前脚が持ち上がる。
「……来い!」
落ちてきた足裏を、両腕で受け止めた。
肘が曲がり、肩が沈む。踏ん張った足元で、岩に亀裂が走った。
「ぐっ……!」
押し返すと、巨大な足がわずかに持ち上がった。だが、ブラキが残る三本の脚を踏ん張り、さらに体重をかけてくる。
岩が砕け、ロッカの右膝が地面へ落ちた。
「ティーラ! 離れてろ!」
彼女が森の方へ跳び退く。ロッカは重みを支えながら、ブラキのもう一本の前脚を見た。川下の、柔らかい土を踏んでいる。
ロッカは岩の縁に左足をかけ直し、膝を地面から離した。肩ごと押し上げ、曲がった肘を伸ばしていく。
「おおおっ!」
頭上の足が持ち上がる。そのまま腰をひねり、両腕を川下へ向けて押し出した。
ブラキの前脚が横へ流れた。
巨体が傾き、立て直そうとしたもう一本の前脚が、柔らかい岸へ深く沈む。ロッカは足を踏み替え、最後の力を込めて押し切った。
「倒れろおおっ!!」
山のような巨体が、真横に倒れた。
岸がえぐれ、土と小石が舞い上がる。川の水が跳ね、ロッカも反動で後ろへ転がった。
片膝をついて止まると、両腕が震えていた。息を整え、倒れたブラキへ顔を上げる。
「ティーラ! 首!」
彼女はもう走っていた。地面へ落ちた長い首に食いつき、起き上がろうとするブラキを押さえ込む。
ロッカも立ち上がり、槍を抜いた。暴れる脚を避けて頭の方へ回り、いつでも踏み込める位置で待つ。
ティーラの顎に力がこもった。やがて首の動きが弱くなり、ブラキは動かなくなった。
「……でかかったなあ」
ロッカは槍を背中へ差し戻し、肩を回した。裂けた袖へ、ティーラの鼻先が近づいてくる。
「平気だ。見ろ。これだけ」
袖をまくると、ぬるい舌が浅い傷をなでた。
「それは染みる。食う前に俺を舐めるなって」
もう一度袖を嗅いでから、ティーラは顔を引っ込めた。
ロッカはブラキの腹のそばへ立った。見上げるほどの肉の山だ。
「家まで何往復すりゃいいんだ、これ」
ティーラはもう食べ始めていた。
「腹いっぱい食っていいぞ。残りは干すからな」
腰の牙斧を抜いた。まずは腿の肉から、小さく分けて川の水で冷やそう。
「おまえの分も焼いてやるから――」
目の前へ青い文字が浮かんだ。
【攻略を確認しました】
ロッカは斧を下ろした。顔をそらしても文字はついてくる。指で触れようとしても、何も触れなかった。
【九龍六歌を送還します】
「……帰れるのか?」
自分の名前だった。
いつか帰れたら、ティーラを母に紹介しようと思っていた。庭には入らないから、玄関まで出てきてもらおう。父には、寝床の雨漏りをようやく直せたと自慢しよう。
「ティーラ。帰れるって」
彼女へ振り向いたとき、足元が白く光った。
川原の石が見えなくなる。光はロッカの周りだけを囲み、ティーラの足元には届いていなかった。
「待て。こいつもだ」
手を伸ばすと、ティーラが頭を下げた。その鼻先に触れる手前で、光が壁になった。
ロッカは斧をしまい、両手を押しつけた。向こう側で、ティーラも鼻を当てる。
「一緒に帰るんだよ」
大きな鼻が潰れるほど押しても、壁は動かない。ロッカも肩からぶつかった。もう一度。けれど、足が地面から離れていく。
「ティーラ!」
彼女が喉を鳴らした。三十年前から変わらない金色の目が、ロッカを見ていた。
ロッカは壁を三度たたいた。
「待ってろ。絶対、迎えに来るからな!」
ティーラが前脚を地面へついた。
とん、とん、とん。
顔が遠ざかる。ロッカは最後まで手を伸ばしたが、指は何にも触れなかった。
二〇五六年十月二十日、東京都青梅市。
「同接、二十三人……」
瀬戸美香は、手元の端末を見てため息をついた。
配信二年目の二十四歳。配信だけで生活できた月は、まだない。
青梅ダンジョンの管理棟で見学と撮影の許可をもらい、裏の広場へ出た。黄色い見学柵の向こうに、青白いゲートが浮かんでいる。
入口は、この一つだけだ。光の輪の向こうには、照明のついた洞窟が見える。地鳴りが続いていると聞いて来たが、今は荷物を背負った探索者が通るばかりで、変わったことは何も起きていなかった。
「おかしいなあ。私、顔は結構いいと思うんだけど」
肩の横に浮いた丸いロボットが、レンズをこちらへ向けた。手のひらほどの古い撮影ロボ、ポチだ。
「コメントです。『顔はいいのにね』」
「でしょ? 分かってるじゃん」
「続けて、『企画が弱い』」
「それも分かってるんだよ!」
ポチは撮影しながらコメントも読み上げてくれる。二十三人のうち何人かは、もうミカよりポチに話しかけていた。
「やっぱりダンジョン配信かなあ」
人気探索者の番組なら、魔物が出ただけで何万人も集まる。今日の自分の配信には、まだ鳥しか出ていない。しかも、その鳥は今、飛んでいった。
「『ミカちゃん、戦えるの?』というコメントが来ています」
「戦えないよ?」
「『じゃあ無理じゃん』」
「そうなんだよ。だから困ってるんじゃん」
探索者の資格は取った。けれど、練習用の魔物に歯をむかれたところで、ダンジョン配信の計画は止まっている。
「稼ぎたいけど、死にたくはないんだよね」
「『それはそう』」
「そこだけ全員一致しなくていいよ」
そのとき、足元が揺れた。
ゲートのそばにいた職員も作業を止め、光の輪を見ている。もう一度揺れると、ミカは見学柵から身を起こした。
「……え。これ、今までで一番大きくない?」
ゲートが強く光り、向こうの洞窟が見えなくなった。
「ポチ、読み上げ止めて」
レンズが光へ向く。職員が無線へ声を上げた、その瞬間。
「ティーラ!」
男が飛び出してきた。
「きゃっ!」
ミカは柵から飛びのいた。男は硬い床へ肩から落ち、背中から抜けた槍が金属の柵に当たった。
長い髪を束ね、獣の皮を着ている。腰には牙で作ったらしい斧。顔にも腕にも、古い傷が残っていた。
男はすぐに起き上がり、ゲートを振り向いた。明るさの落ち着いた光の輪の奥に、また岩の壁が見えてくる。
「ここ、日本か?」
柵のそばのミカへ聞いた。
「うん。東京の青梅。青梅市」
「……青梅」
男は管理棟の向こうへ目をやった。道を走る車と、その先の家並みを見て、口元を緩める。
「帰ってきたんだな」
端末へ目を落とすと、コメントが続けて流れていた。
〈今の男、何?〉
〈録ってた。これ、切り抜き上げるわ〉
画面の隅で、同時接続の数字が増え始めている。
けれど、男はもう落ちた槍を拾っていた。
「待ってろ、ティーラ」
「ちょっと! 今出てきたばかりですよ!」
職員が呼び止めたが、男は光をくぐってしまった。ミカは慌ててポチへ手を振る。
「こっち向いて。私だけ撮って」
洞窟の奥へ向かう男を見送り、もう一度端末を確かめた。さっきから増え続けていた数字が、また跳ねる。
【同時接続 1,842人】
〈切り抜き見て来た。今の何?〉
〈ミカ、あの人どこ行った?〉
ミカは桁を数え直した。
「……あ、ちょっとバズった」
顔を上げると、まだ男の背中が見えた。
「皆、ごめん。あの人の様子を確認するので、配信はここまでにします。またね!」
指が終了ボタンを外れた。押し直し、配信と録画が止まったのを確かめてから、柵の端の扉へ走る。
職員に探索者の登録証を見せた。
「入口で連れて戻ります!」
「奥へ進まないでください。こちらも応援を呼びます!」
ミカは頷いて、ゲートをくぐった。
「おい、出口の前に箱を置くなって!」
「待って。車輪が石に挟まった!」
光を抜けた途端、人の声が飛び込んできた。
足の下はごつごつした岩だった。壁には照明が取りつけられ、荷物を積んだ台車を二人の探索者が押している。別の一人は壁際で靴に入った砂を払っていた。
焦げた盾を抱えた男が、その横を通って外へ出ていく。
槍を持った男は、入口から少し進んだところで立ち止まっていた。探索者たちを見て、照明を見上げ、それから洞窟の奥へ目を向ける。
「……人がいる」
ミカがそばへ着くと、男は槍を下ろした。
「ここ、俺がいた森じゃないぞ」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
三十年を共にした相棒を残し、ひとり帰ってきたロッカ。
迎えに戻ったゲートの先にも、恐竜の森はありませんでした。
次回、ミカと一緒に三十年前の記録を調べます。
二人の続きが気になった方は、作品をフォローしてお待ちいただけると嬉しいです。




