第77話 動き出す世界 14
TYPE-Σを孕んだステルス輸送機から切り離されたカプセルが高速で下降し、ナマズ・ビル南面の非常通風孔にした。
ジェル緩衝材でコーティングされていて音はしない。
だが、屋上に出たヘルマンはそれを見逃さない。
「……来たか」
彼は拳を握った。
武器の代わりに、骨と筋を締める。人間が最後に頼れるものは、案外それだけだ。
* *
ベルリン郊外。
の外れにある、窓の少ない建物だった。外壁は灰色で、看板はない。看板がないのは、後ろめたい連中ほど徹底する。
室内は異様に明るい。白いLED照明。無機質な会議机。コーヒーの匂いだけが"人間"を主張している。
壁一面に並んだモニターには、ひとつの映像が映っていた。
ナマズ・ビル、五十七階。
TYPE-Σのヘッドカメラ映像。
画面の中心には、非常灯の薄い光で切り取られた廊下がある。人影はない。
殺戮の恐怖を、遠い国の安全な椅子の主が眺めている。
人類史上いちばん下品な構図だ。
ハンス・バルツェクは背もたれに身を預け、指先でグラスの縁を撫でていた。
眼鏡の奥の目が笑っていない。
隣には、NATO支援・調達機関(NSPA)の高官が座っている。スーツは高価で、顔は疲れていて、言葉は慎重だった。
慎重な男ほど、危険な仕事をする。
「実戦の画は、いつ見ても……説得力がある」
高官が低い声で言った。
「説得ではない」
バルツェクは即答した。
「"買わせる"ための教育でな」
高官は薄く笑った。
笑いながら、視線は画面から外さない。
彼の瞳孔が、わずかに開いている。怖いのではない。興奮だ。兵器の性能に心が反応している。
「侵入は?」
高官が訊いた。
バルツェクは指を止め、モニターの隅に表示された小さな数値を見た。高度、気流、衝撃吸収率、音響乱れ指数。
人が死ぬ場所に、数字だけが整然と並ぶ。
「完璧だ」
バルツェクが言った。
「音も風も、世界に礼儀正しいまま人間を殺せる」
その瞬間、映像がわずかに揺れた。
揺れた、というよりもともとの揺らぎが消えたというほうが正しい。
空間が、不自然に整った。
「来たな」
バルツェクが呟いた。
ナマズ・ビル。五十七階。
南面の非常通風孔の内側域。
通風孔の金属が、内側から押し広げられる。切断音はない。破壊音もない。
ただ、材料が「諦めて曲解」する気配だけが走る。
刺さっていたカプセルが、ゆっくりと"開花"した。
内側からジェル緩衝材が吐き出される。透明で、粘る。光を吸う。
あれは衝撃を殺すための臓腑だ、と誰かが言ったら信じるだろう。
そして、一体目が出た。
続いて二体目。三体目。
TYPE-Σ。都合三体。
姿勢は低い。肩が落ち、関節が滑らかにたたまれている。
人間の歩き方に似せていない。似せる必要がない。
彼らは"効率"そのものだった。
非常灯の光が、外の兵装に吸い込まれる。輪郭が曖昧になる。
目だけが光る……わけでもない。むしろ光らせない設計だ。
ただ、カメラの視界の中心に"何かがいる"という確信だけが残る。
ベルリン郊外の部屋で、NSPA高官が小さく息を吸った。
それは驚嘆の息だ。怖さの息ではない。
「……美しいな」
高官が言った。
バルツェクは笑った。
「倫理を捨てたものは、いつも美しい。余計なものがないからな」
その美しさの先に、標的がいた。
五十七階のフロア。
廊下の奥、屋上階段の扉の近くに、ひとり立っていた。
ヘルマン。
武装はしていない。
銃も刃も、鍵のかかった保管庫の中であった。
このビルは以前より非武装拠点だ。
戦場のあつらえをしていない。
だからこそ、TYPE-Σにとっては最高の狩場だった。
ヘルマンは動かなかった。
動かないのは、怖いからではない。
"動くべき瞬間"を計るためだ。
耳小骨が拾っていた。
空調のダクトを伝う、わずかな圧の変化。
床の微振動。
鼓膜ではない。骨に来る。
音の代わりに、敵意の波形が来る。
波が三つ。
距離、十五メートル。
速度、ゆっくり。
だが、いつでも速くなれる。
ヘルマンは拳を握った。
その手に"武器はない"。
拳が最強の武器だからだ。
TYPE-Σの一体が、頭部をわずかに傾けた。
認識。測定。優先順位の更新。
ヘッドカメラの映像には、ヘルマンの姿が中心に収まる。
ベルリンの会議室で、画面の周囲に小さなデータが立ち上がった。
身長、体重推定、骨密度、筋繊維束の推算、反応速度予測。
人間を"対象"として扱う数字が踊る。
高官が身を乗り出した。
「抵抗するのか。素手で?」
バルツェクは淡々と答えた。
「抵抗はするだろう。だが、意味はない。意味があるのは"これから我々が目にする映像"だ」
TYPE-Σ一体目が滑るように前へ出た。
二体目は右壁際。三体目は天井の死角へ。
三体が"ひとつの動物"みたいに連携する。
ヘルマンは、目を細める。
視力で追うのではない。
空気の密度で追う。
一体目が、いきなり距離を詰めた。
無音の突進。
床を蹴った衝撃がない。衝撃を床に残さない走り方。
ヘルマンは半歩だけ、前に出た。
逃げる半歩ではない。迎える半歩だ。
TYPE-Σの拳が飛ぶ。直線。最短。
それをヘルマンは、受けない。
拳の"終点"をずらす。
肘で弾き、体軸をひねり、相手の前腕を自分の肩の外へ流す。
金属じみた外装が、ヘルマンの皮膚を擦った。
冷たい。
だが痛みは遅れて来る。
今は神経は計算に集中している。
ヘルマンの拳が返る。
顎ではない。頭部でもない。
関節??肘の内側を狙った。
人間相手なら、腱が切れる場所。
機械相手なら、可動の"弱点"がある場所。
鈍い打撃音がした。
小さな音なのに、廊下の空気が一瞬だけ緩んだ。
TYPE-Σの腕がわずかに沈む。
沈むが、止まらない。止まらせない設計だ。
二体目が、右から来た。
ヘルマンの背後を取る角度。
三体目は、天井の梁を伝っていた。
落ちる準備をしている。
ヘルマンは、笑わなかった。
だが、心の中でだけ舌打ちした。
三体。
狙いは俺ではない。
このフロアの"治療中のルカ"だ。
彼は一瞬で判断を切り替えた。
守るべきは自分の体ではない。
この廊下の先にある、無防備な部屋。目を閉じたままのルカ。
そして、武器を喪ったロータとイザベル。
ヘルマンは後退した。
逃げるのではない。
"守る距離"へ戻った。
その後退に合わせて、TYPE-Σは加速した。
三体が同時に。
影が伸びる。
非常灯の光が、刃みたいに割れる。
ベルリン郊外のモニターに、ヘルマンの視界が大きく映る。
その背中越しに、廊下が伸びる。
そして、その先にある部屋の扉がターゲットとして枠で囲まれた。
高官が、喉を鳴らした。
「……標的選定が速い。人間の判断を挟んでいない」
バルツェクは頷いた。
「人間は迷うからな。買い手は迷いを嫌う」
ナマズ・ビル五十七階。
ヘルマンは、最初の一撃を受け流した拳で、床を強く叩いた。
ドン、と短い振動。
それが合図だった。
味方に向けた合図。
"来た"ではない。
"来させるな"という合図だ。
次の瞬間、TYPE-Σ一体目が、ヘルマンの胸へ突きを入れた。
貫くためではない。押し倒し、床へ縫い付けるための突き。
ヘルマンは、その突きを胸で受けた。
受けたのではない。噛んだ。
肩を落とし、体重を乗せ、相手の腕を自分の胸筋で"挟み"込む。
そして、相手の手首を掴み、ひねった。
関節が悲鳴を上げるはずだった。
だがTYPE-Σは悲鳴を上げない。
悲鳴を上げるのは、空気のほうだった。
金属と複合材が擦れる、細い軋み。
それだけが、ヘルマンの勝利の手応えだった。
「……止める」
ヘルマンが呟いた。
誰にも聞かせるためではない。自分に言い聞かせるための声。
二体目が背後へ回り込む。
三体目が上から落ちる。
殺戮ショウの幕が、今まさに、本番へ上がろうとしていた。




