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第76話 動き出す世界 13

 ナマズ・ビル。


 深夜二時三十四分。


 高層階のフロアは、静まり返っていた。


 非常灯だけが、天井に沈んだ光を灯している。


 すべての武器は、鍵のかかった保管庫の中だった。


 四騎士の誰もが、武装解除状態。


 イザベルの治療を終えて、一行は駿河の景山別荘を後にし、治療拠点を、六本木ナマズ・ビルに移した。


 阿羅業と炎琳は、X3000のスペアー器を携えて、美亜と炎冥の治療のために龍雅と別れて埼京医科大学に向かった。


 今夜、ルカの治療が行われる。


 それが始まれば、x3000は再び起動モードへ入り、最も脆い瞬間が訪れる。


 ルカは、目を閉じたまま横たわっていた。


 視力はすでに喪失。


 その分、鼓膜が異様に敏感になっていた。


「……妙だな」


 隣のロータが小さく呟いた。


「何が?」


「……外の風の音が、聞こえない」


 ルカは耳を聳てた。


「違う。風が"跳ね返ってるのだと思う"」


 ロータは立ち上がる。


 ルカが言う。


「来たか」


「分かるか?」


「分かる。"来ない音"がある」


 その言葉に、ヘルマンが立ち上がった。


「屋上、確認する」


 誰も止めなかった。


 その一歩が命を賭けた行動であることを、全員が理解していた。


 TYPE-Σを孕んだステルス輸送機は、東京湾上空を音もなく滑っていた。


 機体の腹部に格納されたポッドから、地上1,500メートルで切り離される。


 重力すら警戒する沈黙。


 パラシュートは使わない。


 ジェル緩衝材を内蔵したカプセルが、高速で下降し、ナマズ・ビル南面に向かう。


 音はしない。


 風も揺れない。


 だが、誰かがそれを察知していた。


 屋上に出たヘルマンの耳が、


 夜空をかすかに震わせる音を拾った。


 鼓膜ではない。


 骨伝導。


 その微細な波形が、"敵意"を孕んでいる。


「……来たな」


 彼は、動かなかった。


 目を瞑り、思念を張り巡らせカプセル飛来の気配を探る。


 *   *


 湾岸線をひた走るポルシェ・カイエン・ターボの車内で、ユリアは窓の外を見ていた。


 黒い海。無数の灯。


 レインボー・ブリッジ橋の光の列。


 さっきまで頬にあった銃口の冷たさが、まだ皮膚に貼りついている。


 助手席でワジキは運転に集中している。


 ハンドルを握る手は微動だにしない。人間の手なのに、工具のようだった。


 ユリアはスマホを握りしめた。


 MSOの極東支局、繋がらない……。


 通信が途切れているのではなく途切れさせられている。


 直感が、嫌な形で背中を撫でた。


 敵は、治療の"開始"に合わせて来る。


 脆い瞬間を、知っている。


「ワジキ……」


 ユリアは前を見たまま言った。声がかすれているのに、意志は硬い。


「あなた、本当に"救う"つもりなの?」


 ワジキは一拍置いて答えた。


「ミコガミ・ゴウの命令だからな」


 ユリアは唇を噛んだ。


 命令。


 それは救いの言葉ではない。だが彼女は知っている。


 命令で救われる命もある。医療だって、時に"手順"という名の命令で人を救う。


「じゃあ、私も行く」


 ユリアは言い切った。


 ワジキは何も言わなかった。


 拒絶のない沈黙。許可でも同意でもない。だが、ハンドルを握る指がほんのわずか強く締まった。


 カイエンは六本木方面へ……行かず、唐突に車線を変えた。


 首都高の流れの中で、獣が進路を変える。


 ユリアの心臓が嫌な跳ね方をした。


「どこへ??」


「多摩川だ」


 ワジキは短く言った。


「仲間がそこで待っている」


 ナマズ・ビルから南西五キロ手前の地点。


 多摩川沿いの廃倉庫群にカイエンは停まった。


 ズルロイの兵士が駆け寄り、止まったカイエンのドアをあけ、赤外線双眼鏡をワジキに手渡した。


 ワジキは、道路に片膝をついて赤外線双眼鏡を覗いていた。


 肩に小型の気流探査装置。


 風の動きで空を読む。


 ユリアは、その背中を見て息を呑んだ。


 この男は、戦う前に"空気"を診ている。医師の所作に似ていた。


 装置がわずかに揺れた。


「……来てる」


 ズルロイの士官が近づく。


 闇の中で声が湿る。


「機体は?」


「映らん。ノイズが"ない"からな」


 それは普通の無音とは違った。


 "音を排除した設計の飛行物体"が迫っている。


 ワジキは立ち上がった。


「動かなくてはならん。四騎士が治る前に、世界が終わる」


 ユリアの胸が冷えた。


 世界が終わる、という言葉が、脅しではなく事実の説明に聞こえたからだ。


 そのころユリアは、廃倉庫群の闇の中でワジキの横顔を見ていた。


 彼の目が、空を刺している。


 ユリアの目は、ナマズ・ビルの方向を刺している。


 今夜は、救いに"拳"が必要になる。


 拳で命を救おうなんて、世界はなんて品がないのだろう、とユリアは一瞬だけ笑いそうになった。


 ワジキが声をかけると、ズルロイの士官たちがぞろぞろと現れた。


 倉庫の中から六台の重武装バイクが道路に出され、ワジキはその一台に跨った。


 二十ミリ機関砲を二門搭載した重戦闘バイク六台、暗視走行モード。


 エンジン音は殺され、闇の中で獣の影だけが動く。


 ユリアはワジキの背に声を投げた。


「私も行く。置いていかないで」


 ワジキは振り返らずに言った。


「落ちるな」


 それが、この男の"気遣い"だった。


 優しい言葉が出ない代わりに、命綱みたいな命令だけをくれる。


 ユリアはバイクの後部に跨り、しがみついた。


 ワジキはズルロイの士官たちに低く呟いた。


「これは戦争じゃない。人間を守る仕事《ガーディアン・ジョブ》だ」


 命の保証はない。


 あるのは冷たい風と、握る力と、守らねばならない名前の数だけだ。


 闇を裂いて、バイクが走る。


 六本木へ。ナマズ・ビルへ。


 四騎士の最も脆い瞬間へ。


 そしてユリアは、風の中で目を細めた。


 ナマズ・ビルの灯が、遠くで冷たく瞬いていた。


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