第75話 動き出す世界 12
東関道、追い越し車線に停止した二台の外車。
冷たい風が、ユリアの髪を乱した。硝煙の匂いはまだ鼻の奥に残っている。
目の前の男は、血臭をまといながら、妙に静かだった。戦いの後の静けさではない。最初から静かな男の静けさだ。
ユリアは一歩、距離を取った。取ったつもりで、取れていない。
この男の“圧”は、距離で薄まらない。
「……あなたは誰?」
声が少しだけ震えた。震えは恐怖だけじゃない。怒りと、生への執念が混じった震えだ。
「どこに行くつもり?」
男は、破れたフロントガラス越しに一度だけ車内を見た。
倒れたリヒャルトを“確認”しただけだった。裁判官の目でも、復讐者の目でもない。
破壊処理担当の男の目だった。
それから、ユリアのほうを向いた。
表情はない。だが目の奥に、消えきらない赤い残火がある。
「ワジキ」
短く言った。名は投げ捨てるみたいに。だが投げ捨て切れていない。
ユリアが息をのむのを見て、ワジキは言葉を続けた。
必要な分だけ。まるで報告書のように。
「一度……死にかけたことがある」
その声に感情はない。なのに、不思議に重い。
「瓦礫の下で、何日も。血が乾いて、匂いが消えても、まだ生きてた」
ユリアの胸に、妙な痛みが走った。
“生きてた”という言葉が、ただの事実じゃなく、呪いのように聞こえたからだ。
「ミコガミ・ゴウという日本人が……俺を拾った」
ワジキは自分の胸を指先で叩いた。金属を叩くような鈍い音がした。
「日本民族の中には、異能の血を持つ者がいる……って言った。ミコガミは、その血を俺に継がせた」
ユリアは喉が渇いた。
“継がせた”という表現が、手術じゃなく、儀式に聞こえた。
「俺は命を取り留めた。異能の力も手に入れた」
ワジキの瞳が、ほんのわずか動いた。
それは誇りじゃない。自嘲だ。
「ミコガミは、俺の命の恩人だ」
ユリアはそこで初めて気づいた。
この男は“救われた”ことがある。
救われた人間が、こんな目をして生きているということが、逆に痛々しかった。
「そのミコガミが言った」
ワジキは言葉を区切った。道路の風の音が、その隙間に入り込む。
「日本に行け。ヨハネの騎士と、ユリアを救え……と」
ユリアは自分の名が出た瞬間、背筋が冷えた。
救え? 誰が? 何から?
問いが頭の中に噴き上がる。だが、口にできたのは一つだけだった。
「……なぜ、私を?」
ワジキは答えなかった。
答えられないのではなく、答え自体を持っていない顔だった。
命令を受けて動く兵器の顔。だが兵器にしては、言葉が多すぎた。
「俺は……ヨハネの四騎士の元へ行かなきゃならない」
ワジキはカイエンを指さした。
「今から」
ユリアは一瞬だけ、迷った。
この男は助けてくれた。だが、助け方が人間のそれではない。
それでも――ユリアは知っている。味方が“まとも”である必要はない。必要なのは、こちらの側に立つ意思だ。
カイエンのドアが開いた。車内は無機質で、冷たく、だが妙に整っていた。
ワジキが運転席へ滑り込み、ユリアに顎で合図した。
「乗れ」
ユリアは乗った。
拳銃を突きつけられた後部座席ではなく、今度は“生きるための席”に座った。
エンジンが唸る。
カイエンは湾岸線へ合流し、夜の海へ向かって伸びる光の帯に入り込んだ。
東京の灯が右に流れ、左には黒い海が広がる。
潮の匂いが窓の隙間から入り、さっきまでの硝煙を少しずつ押しのけていく。
ユリアは窓の外を見た。
海は真っ黒で、優しさの一欠片もない。だが、黒い海の上に灯る橋の灯りは、どこか救いのようだった。
「ナマズ・ビルへ行くの?」
ユリアは言った。自分の声が、驚くほど落ち着いて聞こえた。
怖いのに、人は時々こんなふうに落ち着く。危機が“現実”になった瞬間だ。
ワジキは頷いた。
ハンドルを握る手は微動だにしない。生き物の手ではなく、工具の手だ。
「そこに……騎士がいる。そして、騎士を狙う敵もだ」
ワジキは言った。
そして、ほんの一拍おいて、低く呟いた。
「騎士を……助ける」
その二文字が、ユリアの胸に刺さった。
優しい言い方じゃない。あたたかい声でもない。
それでも刺さったのは、その言葉が“目的”ではなく、“義務”でもなく――
この男の中で、かすかに“約束”に近いものとして響いたからだ。
湾岸線は伸びていく。
暗い海の上を、二人を乗せた獣が走る。
背後に置き去りにされたのは、権力欲に酔った男の呻きと、東関道の無情の白線。
前方にあるのは、ナマズ・ビル。
闇の中で待つ“騎士”たち。
そしてユリアの運命は、また別の冷たい刃の上へ移されていく。
それでも――
隣の運転席にいるのは、最悪な形をした救いだ。
ユリアは、シートベルトを締め直した。
泣かない。
泣けば、負ける。
湾岸線の灯が、まるで流星のように流れていった。




