↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
75/100

第75話 動き出す世界 12

 東関道、追い越し車線に停止した二台の外車。


 冷たい風が、ユリアの髪を乱した。硝煙の匂いはまだ鼻の奥に残っている。


 目の前の男は、血臭をまといながら、妙に静かだった。戦いの後の静けさではない。最初から静かな男の静けさだ。


 ユリアは一歩、距離を取った。取ったつもりで、取れていない。


 この男の“圧”は、距離で薄まらない。


「……あなたは誰?」


 声が少しだけ震えた。震えは恐怖だけじゃない。怒りと、生への執念が混じった震えだ。


「どこに行くつもり?」


 男は、破れたフロントガラス越しに一度だけ車内を見た。


 倒れたリヒャルトを“確認”しただけだった。裁判官の目でも、復讐者の目でもない。


 破壊処理担当の男の目だった。


 それから、ユリアのほうを向いた。


 表情はない。だが目の奥に、消えきらない赤い残火がある。


「ワジキ」


 短く言った。名は投げ捨てるみたいに。だが投げ捨て切れていない。


 ユリアが息をのむのを見て、ワジキは言葉を続けた。


 必要な分だけ。まるで報告書のように。


「一度……死にかけたことがある」


 その声に感情はない。なのに、不思議に重い。


「瓦礫の下で、何日も。血が乾いて、匂いが消えても、まだ生きてた」


 ユリアの胸に、妙な痛みが走った。


 “生きてた”という言葉が、ただの事実じゃなく、呪いのように聞こえたからだ。


「ミコガミ・ゴウという日本人が……俺を拾った」


 ワジキは自分の胸を指先で叩いた。金属を叩くような鈍い音がした。


「日本民族の中には、異能の血を持つ者がいる……って言った。ミコガミは、その血を俺に継がせた」


 ユリアは喉が渇いた。


 “継がせた”という表現が、手術じゃなく、儀式に聞こえた。


「俺は命を取り留めた。異能の力も手に入れた」


 ワジキの瞳が、ほんのわずか動いた。


 それは誇りじゃない。自嘲だ。


「ミコガミは、俺の命の恩人だ」


 ユリアはそこで初めて気づいた。


 この男は“救われた”ことがある。


 救われた人間が、こんな目をして生きているということが、逆に痛々しかった。


「そのミコガミが言った」


 ワジキは言葉を区切った。道路の風の音が、その隙間に入り込む。


「日本に行け。ヨハネの騎士と、ユリアを救え……と」


 ユリアは自分の名が出た瞬間、背筋が冷えた。


 救え? 誰が? 何から?


 問いが頭の中に噴き上がる。だが、口にできたのは一つだけだった。


「……なぜ、私を?」


 ワジキは答えなかった。


 答えられないのではなく、答え自体を持っていない顔だった。


 命令を受けて動く兵器の顔。だが兵器にしては、言葉が多すぎた。


「俺は……ヨハネの四騎士の元へ行かなきゃならない」


 ワジキはカイエンを指さした。


「今から」


 ユリアは一瞬だけ、迷った。


 この男は助けてくれた。だが、助け方が人間のそれではない。


 それでも――ユリアは知っている。味方が“まとも”である必要はない。必要なのは、こちらの側に立つ意思だ。


 カイエンのドアが開いた。車内は無機質で、冷たく、だが妙に整っていた。


 ワジキが運転席へ滑り込み、ユリアに顎で合図した。


「乗れ」


 ユリアは乗った。


 拳銃を突きつけられた後部座席ではなく、今度は“生きるための席”に座った。


 エンジンが唸る。


 カイエンは湾岸線へ合流し、夜の海へ向かって伸びる光の帯に入り込んだ。


 東京の灯が右に流れ、左には黒い海が広がる。


 潮の匂いが窓の隙間から入り、さっきまでの硝煙を少しずつ押しのけていく。


 ユリアは窓の外を見た。


 海は真っ黒で、優しさの一欠片もない。だが、黒い海の上に灯る橋の灯りは、どこか救いのようだった。


「ナマズ・ビルへ行くの?」


 ユリアは言った。自分の声が、驚くほど落ち着いて聞こえた。


 怖いのに、人は時々こんなふうに落ち着く。危機が“現実”になった瞬間だ。


 ワジキは頷いた。


 ハンドルを握る手は微動だにしない。生き物の手ではなく、工具の手だ。


「そこに……騎士がいる。そして、騎士を狙う敵もだ」


 ワジキは言った。


 そして、ほんの一拍おいて、低く呟いた。


「騎士を……助ける」


 その二文字が、ユリアの胸に刺さった。


 優しい言い方じゃない。あたたかい声でもない。


 それでも刺さったのは、その言葉が“目的”ではなく、“義務”でもなく――


 この男の中で、かすかに“約束”に近いものとして響いたからだ。


 湾岸線は伸びていく。


 暗い海の上を、二人を乗せた獣が走る。


 背後に置き去りにされたのは、権力欲に酔った男の呻きと、東関道の無情の白線。


 前方にあるのは、ナマズ・ビル。


 闇の中で待つ“騎士”たち。


 そしてユリアの運命は、また別の冷たい刃の上へ移されていく。


 それでも――


 隣の運転席にいるのは、最悪な形をした救いだ。


 ユリアは、シートベルトを締め直した。


 泣かない。


 泣けば、負ける。


 湾岸線の灯が、まるで流星のように流れていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。