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第74話 動き出す世界 11


ポルシェ・カイエン・ターボは、ぴたりとG63の横腹へ寄り添い、次の瞬間、激しくプレッシャーをかけてサイドから押しつけた。


G63の黒い巨体は、カイエンと灰色の中央分離帯コンクリートの間に挟まれ、悲鳴を上げた。


「逃がさない」


車そのものが、そう言っている。


G63は巨体を誇っていたが、横から押されると脆かった。


中央分離帯へじりじりと追い詰められ、右のタイヤが擦り、金属が悲鳴をあげる。


最後は、鈍い衝撃。獣が柵に鼻面を押しつけられるがごとく、動きが止まった。


車内の空気が、止まった。


ユリアの頬にあった銃口の冷たさは、まだ記憶に貼りついている。


それでも彼女は泣かない。泣けば負ける。泣けば、男が局長になる。


ただ、息を殺して、来るものを待った。


来たのは――


ドアの開く音ではなかった。


乾いた靴底がアスファルトを叩く、短い音。


そして、影がフロントガラスの向こうに立った。


ウクライナ系の男だった。


背は高くない。だが、輪郭が鋼みたいに固い。


視線が、まっすぐで、感情の置き場がない。


どこかで人間をやめた目だ。


彼は躊躇しない。言葉もいらない。


拳が上がり、フロントガラスへ落ちた。


バン、と乾いた破裂音。


蜘蛛の巣のようにひび割れが走り、次の一撃でガラスは崩れ落ちた。


破片が雪みたいに舞い、冬の光を跳ね返して散った。


運転席の男が息を吸いかけた。

吸った瞬間に、全てが終わった。


ウクライナ人の手が、運転席へ伸びる。


大概は指は“掴む”ためにある、彼の指は“潰す”ためにある。


運転手の四肢――逃げるための手足が、音もなく無力になった。


叫びは、喉の奥で潰れて、外へ出る前に形を失う。


人間が「戦う」でも「逃げる」でもなく、「壊れる」音だけがした。


ユリアは、目を逸らさなかった。


目を逸らしたら、ここまで耐えた自分が無駄になる。


ただ、心の中でひとつだけ思った。


――この男は、味方なのか。化け物なのか。


その答えは、すぐに来た。


後部座席のリヒャルト・サイデッガーが、銃を引き抜いた。


シグ・ザウエルの9ミリ。


彼は撃った。ためらいも祈りもなく撃った。


車内に銃声が弾けた。


耳が痛むほどの破裂音。硝煙の匂いが一瞬で満ち、金属が叩かれる音が混ざる。


だが――ウクライナ人は止まらない。


弾は当たったかもしれない。


当たっていたとしても、彼には“痛い”という神経伝達経路がそもそもに存在していないかのようだった。


彼の顔は動かなかった。動いたのは拳だけだ。


ウクライナ人は車内へ腕を突っ込み、リヒャルトの襟を掴んで引きずり出した。


まるで不要な荷物を引っ張り出すように。


だが、その所作は恐ろしく静かで、だから余計に怖い。


リヒャルトはなおも乱射しようとした。


局長の椅子に触れたくて、最後まで足掻こうとした。


その瞬間。


ウクライナ人の拳が、顎をとらえた。


派手な殴打ではない。


拳が“置かれた”だけだ。


なのに、顎の骨が受け止めきれない。


リヒャルトの頸が、身体が、内側から崩れたみたいに折れ曲がり、呻きが漏れた。


野心に膨らんだ男は、血の気を失うとこんなにも小さくなるのか。


ユリアはそれを見た。


笑わないし、勝ち誇らない。


ただ見た。


ウクライナ人は、倒れ込む男をもう一度見下ろした。


そこに憎しみはない。


あるのは「処理の必要」だけだ。


人間の感情で動いていない。だから彼は強い。


だが――次の瞬間、その強さの奥で、ほんの僅かな揺れが起きた。


ユリアの目と、ウクライナ人の目が交わった。


そのとき、瞳孔がわずかに縮んだ。


まるで、凍った湖面の下で、何かが生きて動いたみたいに。


幻が、彼の耳元で囁く。


〈壊さない未来を、作って〉


ウクライナ人は、わずかに眉を寄せた。


ほんの一瞬だけ、“殴る機械”の顔が剥がれて、人間の影が覗いた。


そして彼は、銃を撃ち続けるリヒャルトではなく――


震えるユリアのほうを見た。


彼の口が動いた。声は低く、ぶっきらぼうで、言葉は少ない。


それでも、その短さの中に、救いが入っていた。


「……降りろ」


命令の形をした救助だった。


優しさを言葉にできない男が、優しさを“動作”で示す瞬間だった。


ユリアは頷いた。


足は震えていたが、背筋を伸ばしてドアへ手を伸ばした。


生き残る人間の姿勢で。


外の空気が肺に入った。


冷たい。だが、冷たさを感じるということは生きている証拠だった。


背後で、ウクライナ人がもう一度リヒャルトを見下ろす。


その目は無感情のままだ。


けれど、どこかに――妹の声がまだ残っている。


壊すために生まれた異形が、


たった今、壊させないために立っている。


冬の東関道。


二台の黒い獣。


硝煙と風の匂い。


そして、ユリアは知る。


この世界は悪意でできているが、


その悪意の中に、時々――最悪な形をした“救い”が混じるのだと。


遠くからサイレンの音が聞こえてきた。


この事故、いや、事件を目撃した通行車の乗員が警察に通報したのであろう。


ウクライナ人はユリアをカイエンの後部座席に放り込むと、再び運転席に戻った。

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