第73話 動き出す世界 10
成田の空。
雲は低く、差し込む光は薄い。
光の薄さが、到着ロビーの白い照明をいっそう冷たく見せているようであった。
ユリアがゲートを抜けた瞬間、空気が変わった。
待っていたのは、MSO極東支局副支局長リヒャルト・サイデッガーだった。背筋の伸びた男で、笑うと礼儀正しく見える。笑わなければ、ただ硬い。
出迎えの視線というより、検分する視線。まるで狩人が獲物を前にしたような目つき。
ユリアの鞄を当然のように受け取り、当然のように先を歩く。そこに「迎えに来た人間」の温度はなかった。冷たく乾いた手続きだけがあった。
駐車場。黒いメルセデスG63 AMG。
角ばった車体は、戦車のように鈍い光を返していた。まるで「ここから先は逃げられない」と言っている。
後部座席。二人は並んで座った。距離は拳ひとつ分。近いのに、遠い。人間の距離ではなく、物と物の距離だった。
発進。タイヤが乾いたアスファルトを噛む。
空港を背にして、東関道へ吸い込まれる。
しばらくは、音だけが車内を埋めた。エンジンの低い鼓動。
路面の微妙な凹凸ををG63のサスペンションは素直に拾う、車体がわずかに上下する。
その揺らぎは、不整脈患者の心拍のように不安定であった。
ユリアは、窓の外を見ているふりをして、リヒャルトの横顔だけを見ていた。
「四騎士の“処分”?」
ユリアは、言葉を一度、噛んだ。
飲み込めない固い塊を改めて、こじ開けられた口に押し込められた気分だった。
「……誰の命令?」
リヒャルトは、返事をしなかった。
返事の代わりに、彼の右手がジャケットの内側へ滑り込んだ。
次の瞬間、鋼の冷たさがユリアの頬に触れた。
9ミリ拳銃の銃口だった。
ユリアは息を止めた。
音が消えた。世界が、車内の一点・銃口の黒い穴に収束した。
「局長専用コンピューターのパスワードを教えてもらいたい。今日から操作は俺がすることになった」
声は穏やかだった。穏やかすぎて、余計に怖い。
「今、ここで?」
ユリアは、ゆっくりと彼を見た。
男の目が濁っていた。
野心の濁りだ。
人間の心から、道徳・倫理感だけが抜け落ちた時の眼の濁り。
「……リヒャルト」
名を呼ぶと、彼はわずかに笑った。
薄い笑い。ガラスを削るような笑い。
「バルツェクからの指示だ」
告白は、誇りのように語られた。
「局長に昇進したければ、お前を始末しろ……とな」
ユリアの胸の奥で、何かが折れる音がした。
怒りでも悲しみでもない。信じていたものが、紙みたいに破れる音だ。
「……私を、亡きものにして」
ユリアは口の中で言葉を転がした。
「局長に、成り代わるつもり?」
「そのとおり」
男は即答した。ためらいがない。それが最悪だった。
銃口が、頬から唇の端へわずかにずれた。
“喋れ”という合図だった。
ユリアは、泣かなかった。
泣けば、彼は勝つ。
泣けば、彼は局長になる。
その代わり、ユリアは思った。
この男は、もう戻れない。
人は、悪行をやり尽くし、戻れないところまで行った時、それまでの心中の罪悪感の錘が、急に軽くなる。
罪が自分の手から離れ、空気のようになる。
だから平然としていられる。
G63は、速度を上げた。
東関道の風景が、冬枯れの棒みたいに流れていく。
だが、リヒャルトと運転手はまだ、気が付いてなかった。
背後から、もう一つ車影がぴたりと、後に張りついて動いていたのを。
ポルシェ・カイエン・ターボ。
深い紺色のSUVが、G63の死角に入り、距離を詰めてきていた。まるで獣の尾だ。音もなく、気配だけで追ってくる。
運転席の男は、G63の“揺らぎ”を見ていた。
わずかな沈み、わずかな戻り。
車体の挙動は、車内で何が起きているかを、雄弁に語る。
何もなければ、あんな揺らぎは出ない。
中でくり広げられているのは暴力か、それに対する抵抗がもたらす揺らぎか。
男は決めた。
迷いは一秒もなかった。
カイエンが、急加速する。
並走に移る。
右の窓越しに、黒いG63の巨体が迫る。
その瞬間、世界が一度、静止したように見えた。
冬の光。乾いた空気。高速道路の白線。
そして??
ドンッ、と衝撃が来た。
いや、衝撃というより、怒りの塊を車体に叩きつけた力の伝導だ。
カイエンが、サイドからG63に激しく体当たりした。
鉄が、鉄を殴る音。
車体が横へ跳ね、タイヤが悲鳴をあげる。G63の巨体が、ほんのわずか浮いた。
車内でユリアの体が揺れた。
だが、その揺れは??さっきまでの“恐怖の揺らぎ”とは違った。
生の揺れだった。
助けが来た揺れだった。
リヒャルトの腕がぶれ、銃口が頬から外れた。
その一瞬。ユリアの目が、凍ったまま燃えた。
今だ。
言葉はまだ出ない。
心は泣いていない。
今、高速道路は逃げ道ではない。
敵を追いつめるアスファルトのジャングルだ。
そして今、追いつめられるのは、ユリア、リヒャルトのどちらなのか。
G63はよろめき、カイエンは再び寄る。
二台の黒い獣が、冬の東関道で牙をむいた。
白線が、刃物みたいに伸びていく。
ユリアは、唇の端をかすかに持ち上げた。
笑いではない。覚悟だ。
「……パスワード?」
彼女は小さく言った。
「教えてあげるわ。あんたが道路にキスしてからね」
冬の空気が、車内の血の匂いを薄めた。
だが恐怖は薄まらない。
恐怖は、ここから激しく濃ゆくなる。
そして救いもまた、ここから始まる。




