第62話 汚染地帯 5
阿羅業は、洞窟の中央に進み出た。
青白い光に照らされ、十歳ほどの少年が、粗末な毛布に包まれて座っている。
痩せていた。頬はこけ、暗紫色の唇。
途切れ途切れの呼吸は浅く、胸が不規則に上下している。
阿羅業は、少年の前に膝をついた。
目線を合わせる。
「……怖いか」
少年は、小さく頷いた。
阿羅業は、ゆっくりと言った。
「これから、お前の病気を治す。注射をするだけだ。それだけ、我慢しろ」
言葉は短い。だが、嘘はなかった。
炎琳が、横に立つ。
「……準備できてる」
彼女の声も、静かだった。
炎琳は、20ゲージの留置カテーテルを二本取り出す。
右の橈骨静脈。次いで、左。
迷いはない。
針が入る瞬間、少年は歯を食いしばった。
だが、泣かなかった。
「……いい子だ」
阿羅業は、それだけ言う。
右のカテーテルから、少年の静脈血が引き抜かれていく。
血は、透明なチューブを通り、x3000の本体ユニットへ流れ込む。
機械が、低く唸った。
x3000には、八個のCPUが組み込まれている。
それぞれが、16コア、32スレッド。
合計、128コア・256スレッド。
人の一生分の遺伝子を、瞬時に“読む”。
モニターに、AGCT無数の配列が流れる。
右静脈血から取得したゲノム情報。
放射線によって、寸断され、歪み、誤って結合した箇所は、赤く表示される。
「……損傷率は高い」
炎琳が、短く言う。
「……だが、致命的じゃねえ」
阿羅業は、画面から目を離さない。
「……ゲノム修復に、入るぞ」
x3000が、演算を加速させる。
少年の二万幾千個のタンパク質コード遺伝子。
破壊された部分を、正常な配列へと書き戻す。
十五分。
それは、神話なら一瞬だが、医療にとっては、奇跡と呼ばれる長さだった。
修復されたゲノム情報は、左の橈骨静脈から、
持続注入ポンプを介して、少年の体内へ戻されていく。
誰も、声を出さない。
洞窟の奥、咳嗽音はもう聞こえない。
やがて――
モニターが、静かに数値を示した。
SpO2:99%
酸素飽和度。
さっきまでは、80%を下回っていた数値だ。
阿羅業は、少年の顔を見た。
青白さが、消えている。
頬に、わずかに血の色が戻っている。
少年が、ゆっくりと息を吸った。
深い。
苦しくない呼吸。
「……」
声にならない声で、少年は阿羅業を見た。
立ち上がった老人が、思わず手にしていた杖を落とした。
カラン、と乾いた音。
膝が、崩れる。
「……娘を」
震える声。
「……娘を連れてこい……」
洞窟の奥から、泣き声が上がる。
それは、悲嘆ではなかった。
初めての、希望の音だった。
そのとき、紅音が、洞窟の入口に立っていた。
拘束は、解かれている。
阿羅業と、炎琳の姿を見て、息を呑む。
「……無事で良かった」
阿羅業は、それだけ言った。
炎琳は、紅音に小さく頷く。
阿羅業は、老人の方を向いた。
声は、低く、だが、はっきりしていた。
「……皆治療が必要だ、全員、山を下りろ」
一瞬の沈黙を置いて阿羅業は続けた。
「海沿いにある相洲院景山の別荘に来い。こ子での生活を続ければ、全滅するぞ」
老人は、顔を上げた。
「……神は……」
阿羅業は、洞窟の奥を指さした。
「神の光じゃねえ」
はっきりと言う。
「瀝青ウランの鉱床だ。おそらく、昔の地震で地殻が動いて、地下の鉱床が露出したのだ。地中では無害だが露出すると大気中に放射線が充満する」
そして、最後に告げる。
「……悪いことは言わん。ここにいれば、全員死ぬ」
阿羅業は、それ以上、何も言わなかった。
医者は、説明を終えた。
判断は、彼らに委ねた。
サンカの一族……現代の社会の庇護からはみ出した、漂泊の旅人たち。
阿羅業が告げられるのはここまでだった。
阿羅業は、踵を返し、洞窟を出ていく。
青白い光が、その背を照らした。
それはもう、神の光ではなかった。
過去の誤解の残光だった。
洞窟の外では、朝の風が吹いている。
彼等が生き延びる道は、ここから、外にあった。




