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第61話 汚染地帯 4

 阿羅業は一歩、踏み込んだ。


 砂利が鳴る。


 同時に線量計の針が、数値が、跳ねた。


 ――20。

 ――45。

 ――70。


 音が変わる。


 乾いた電子音の間隔が、少しづつ速くなる。


「……こちら側か」


 炎琳が地面を見た。草が不自然に寝ている。


 タイヤが、草を踏み散らかした轍の痕で歪んでいる。


 "連れ去り行為自体"は手際がいい。拐取には手慣れた連中だ。


「紅音は車で連れていかれた。あの子、叫ぶ暇もなかったはず」


 炎琳の言葉に阿羅業は頷いた。


 怒りが、言葉より先に呼吸を変える。


「だから追う。……患者と、攫われた娘がいる。ついでに、攫った連中の骨を、事情によっては……叩き折る」


 炎琳が唇の端だけで笑った。


 笑いじゃない。確認だ。


 ふたりは歩いた。


 光を使わない。ライトは最小。


 霧が低く流れ、地表が白く霞む。その白さが、月光なのか粉塵なのか分からない。


 線量計が、また跳ねる。


 ――90。


 ――120。


 阿羅業は足を止め、耳を澄ませた。


 遠ざかるエンジン音に耳を傾ける。……消えかけるタイヤの唸り。


 その向こうで、何かが金属を打つ音がした。車の扉を閉めるような硬い音の気配だ。


「……まだ近い。森へ抜けるつもりだ」


 炎琳が即座に言った。


「追いつけるか。今ならば……」


 阿羅業は一度だけ、別荘の方向を振り返った。


 そこには、ケイがいる。


 龍雅がいる。


 "置いてきた"んじゃない。


 希望を"守らせている"。


 阿羅業は前を向いた。


「行くぞ。これ以上、時間がたつと――紅音が心配だ。炎琳、車を」


 頷いて炎琳は、スバルの鍵を執った。


 スバルが走り出した。


 走り方が、普通の軽四ではない。


 刃の走りだ。


 線量計が鳴り響く。


 その乾いた音を道標に、スバルはひた走った。


 背後に横たわる景山の――別荘。


 内でケイが、扉の前で静かに立った。


 耳が動く。鼻が動く。


 外へ行く気配を捨て、内側に神経を研ぎ澄ます。


 乾いた電子音が、夜の奥で刻々と早まっていく。


 線量計の針は、もはや「警告」という段階を越えていた。


 森の中。


 洞窟の前。


 炎琳は、スバルを停めた。


 ――カチ、カチ、カチ。


 防護マスク越しに吸い込む空気が、喉の奥でざらつく。


 二人は同時に車を降り、立ち止まって、無言で周囲を見渡した。


 霧が濃い。


 ただの霧ではない。


 闇の中、光を含まず、音を殺し、温度を奪う霧だ。


「……ラドンか」


 阿羅業が、低く言った。


「地下から噴き上がってる。長居すりゃ、肺が先にやられる」


 炎琳は、頷いた。


「……人間が?」


「恐らく間違いなく、奥にいる」


 その言葉を待っていたかのように、洞窟の奥から、咳嗽の音が聞こえた。


 短く、細く、しかし何度も繰り返される咳。


 死に瀕している者の絞り出す音だった。


 阿羅業は、懐中灯を点けた。


 光の先で、青白く輝く岩肌が浮かび上がる。


 鉱石。


 露出した断層。


 そこかしこに、淡く光る筋が見えた。


「……『神々しい』光、だな」


 阿羅業は、吐き捨てるように言った。


「随分と、性格の悪い山の神がいたもんだ」


 炎琳は、岩肌に刻まれた手形を見つめた。


 大人のもの。


 子供のもの。


 祈るように、重ねられている。


「……この光に誘われて救いを求めてきたものがいた。神秘の光を信じるしか、なかったのね」


 洞窟の奥から、人影が現れた。


 老人だった。


 背は曲がり、皮膚はくすみ、だが目だけは、鋭くこちらを見据えている。


「……外の者か」


 掠れた声。


 威嚇ではない。


 問いでもない。


 確かめる声だった。


 阿羅業は、一歩前に出る。


 両手を、ゆっくりと上げる。


「俺は……医者だ」


 それだけ言った。


 老人の目が、わずかに揺れた。


「……医者か」


 その言葉を、噛みしめるように繰り返す。


「……娘は、返してもらおう」


 阿羅業の言葉に老人は、即座に答えた。


「返す」


 阿羅業は更にたたみかけた。


「だが、その前に――診せろ」


 老人は、眉をひそめた。


 炎琳が、横から静かに言った。


「……助けてあげる。できる限り」


 老人は、しばらく二人を見比べていた。


 やがて、杖を地面に突く。


「……ついてこい」


 洞窟の奥へ進むと、


 そこには――


 人が、横たわっていた。


 子供。


 若者。


 女。


 皆、同じ症状だ。


 痩せた身体。


 浅い呼吸。


 皮下出血。


 明らかな放射線障害の徴候《サイン》。


 だが、誰もそれに気づいていない。


 阿羅業は、一人の子供の前に膝をついた。


 聴診器で呼吸音を聞く。


 瞳孔を確認する。


 線量計が、さらに音を早める。


「……間に合う?」


 炎琳が、小さく問う。


 阿羅業は、答えなかった。


 代わりに、ゆっくりと立ち上がる。


「……x3000を使う」


 炎琳の目が、一瞬、見開かれた。


「……ここで?」


「ああ」


 阿羅業は、迷いなく言った。


「ここが、最初の現場だ」


 洞窟の青白い光の下で、


 阿羅業は、神ならぬ手を差し出した。


 老人は、その背中を見つめ、静かに言った。


「……山の神は、何もしてくれぬ」


 阿羅業は、振り返らずに答える。


「……神は、遅れてやってくる、端《ハナ》から来ない奴もいる、来てもらいたい時には、もう遅いのだ。医者《おれ》は、呼ばれたから――来た」


 その言葉が、洞窟に、ゆっくりと落ちていった。


 青白い光は、まだ消えない。


 洞窟の内にいるもの全ての染色体を、細胞を、休むことなく蝕み続けている。


 だが――ここに初めて、別の光が灯ろうとしていた。



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