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第60話 汚染地帯 3

 炎琳が防護マスクを放り、鉛入りのブレストプレートを引きずり出す。


 無言の準備。線量計、ヨウ素剤、予備のパーツからくみ上げたx3000の試作複製器。


 龍雅が噛みしめるように言った。


「俺も一緒に行く。紅音は――俺の……」


「お前は腕がまだ折れてる」


 阿羅業は龍雅の胸を押し返した。乱暴じゃない。だが、拒絶の力がある。


「お前が倒れたら終わりだ。お前の頭脳は"装備"だ。ここで動かす。俺と炎琳が追う。取り返す」


 ケイが二歩、前へ出た。阿羅業のズボンの裾を噛む。引っぱる。連れていけ、と。


 阿羅業はしゃがみ、ケイの額に掌を当てた。強く押さえつけるでもなく、逃がさない手つきで体を抑えた。


 ケイが、扉の前で静かに立った。


 耳が動く。鼻が動く。


 外へ行く気配を捨て、内側に神経を研ぎ澄ます


 吠えた。行く、と。置いていくな、と。


 前足で床を叩き、立ち上がろうとして、ふらついた。さっき、受けた放射線の"白い痛み"がまだ身体に残っていた。


「ケイ。お前は"行けない"」


 ケイの喉が震えた。唸りが上がる。怒りと悔しさが混じった低音。


「お前が悪いんじゃねぇ」


 言ってから、阿羅業はケイの首輪のバックアップログを一度だけ見せた。跳ねあがった放射線数値。ケイの生命の限界線だ。


 ケイは目を逸らさなかった。理解してしまう知性が、いまは残酷だった。


 炎琳が、淡々と付け足す。


「あなたが行けば、私たちがあなたの保護をしなければならない。時間が死ぬ。紅音も死ぬ。全員が死ぬ」


 ケイの耳が伏せられ、尾が下がった。


 納得ではない。理解して、飲み込んだだけだ。


 阿羅業が立ち上がる。


「お前の役目は、ここだ」


 指で地下作業場を示す。x2000、完成間近のx3000本器、薬剤、血漿、ノート――命綱の山。


「ここを守れ。もし次が来たら、噛み殺せ。……吠えるな。隠れて、最後に殺せ」


 ケイが、短く一度だけ吠えた。


 "了解"の吠え方だった。


 阿羅業は防護服のジッパーを引き上げながら、最後に背を向けて言う。


「置いていくんじゃねぇ。――任せるんだ」


 扉が閉まる。鋼鉄のロック音。


 ケイはその前に座り、歯を噛みしめた。行けない悔しさを、床に落とさないように。


 別荘の腹の底に、ケイは座り込んだ。


 前足の爪が、石床を一度だけ引っかく。火花が散るほどではない。だが、抑えた怒りが"硬さ"で出た。


 ――行くな。


 ――置いていくな。


 しかし、吠えなかった。


 阿羅業が命じたのは、吠えることじゃない。"守る"ことだ。


 地下では、龍雅が固定された腕を抱え、歯を食いしばっていた。紅音の名前が、喉の奥で血の塊みたいに転がっている。


「……俺らが行けば、余計に死ぬ、かよ」


 阿羅業の言葉が、まだ耳に残っていた。


 正しい。だから腹が立つ。


 ケイが、龍雅の膝に鼻先を押しつけた。


 慰めじゃない。合図だ。ここにいる。ここを守る。


 その頃――


 阿羅業と炎琳は、別荘の裏口にいた。


 外では、線量計の乾いた電子音が、風の中で道標みたいに鳴っていた。


 二人は、その音のするほうへ、迷いなく歩き出した。


 月は薄い。風が冷たい。


 だが冷たさの種類が違う。湿った冷えじゃない。皮膚の奥の水分を奪っていく、乾いた冷えだ。


 阿羅業は防護マスクの縁を指で押さえ、線量計の電源を入れた。


 数字が、静かに揺れる。


 ――5。

 ――8。

 ――12。


「……ここは、まだ汚染地帯の"縁"だな」


 炎琳は鉛入りのプレートを胸に当て直し、短く頷く。


 彼女は恐れていない。恐れを器用に心の中で"処理"している。



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