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第54話 決意


 その音楽スタジオは、地下にあった。


 防音材に囲まれた箱の室内。


 外界の喧騒から、完全に遮断された空間。


 そこには、二人だけがいた。


 張炎冥、羽田美亜


 炎冥は、椅子に腰掛け、バイオリンを顎に当てていた。


 照明は落とされ、譜面台のライトだけが、淡く彼の指を照らしている。


 弓が動く。


 ヴィヴァルディ四季――冬。第二楽章。


 音は、静かだった。


 凍りついた大地の上を、


 慎重に歩くような旋律。


 冷たい。だが、優しい。


 美亜は、スタジオの隅に座り、膝の上で手を組んだまま、耳を澄ましていた。


 胸の奥の痛みが、その間だけ、遠のいていく。


 ……彼の、この音を聴いている間だけは……


 死の怯えが、意識の外に追いやられる。


 炎冥の弓は、何度も同じフレーズをなぞった。


 完璧ではない。だが、誠実な響き。


 やがて――第二楽章の終わりが近づく。


 そのときほんのわずかに音が、揺れた。


 美亜は、顔を上げた。


 気のせいではない。


 音程が、僅かに、下に落ちた。


 旋律そのものは、崩れていない。


 だが――"人の手"の存在が、露わになった。


 炎冥の左手。


 指先が、微かに震えている。


 それは、力の入れ過ぎではない。


 緊張でもない。


 身体の内側から、勝手に起きている震え。


 弓が、止まった。


 空気が、音を失う。


 炎冥は、しばらくその姿勢のまま動かなかった。


 そして、何も言わずに、バイオリンを顎から下ろした。


 ケースを開く。


 ゆっくりと、楽器を収める。


「……ごめん」


 それだけだった。


 言い訳も、説明もない。


 美亜は、立ち上がり、首を振った。


「音、消えてません」


 炎冥の手が、止まる。


 美亜は、彼の指先を見つめて、静かに続けた。


「震えているのは……音じゃなくて、あなたの指です」


 炎冥は、何も答えなかった。


 否定もしない。


 その沈黙が、答えだった。


 命より先に、才能が削れ始める。


 それが、どれほど残酷なことか。


 美亜は、炎冥の前に立ち、小さく言った。


「……でも」


 彼の目を、まっすぐ見る。


「まだ、聴こえます」


 炎冥の喉が、わずかに動いた。


 震える指を、強く握りしめる。


 スタジオの外では、何事もなく、夜が続いている。


 小さな部屋の中で――


 ひとつの未来が、静かに軋み始めている。


 音楽は、まだ死んでいない。


 それだけが、今の救いだった。


 音楽練習スタジオを出て、二人は、近くの河川敷まで歩いた。


 静かな夜だった。街灯はまばらで、


 川面は、光を受けてもほとんど反射しない。


 炎冥は、ベンチに腰を下ろし、バイオリンケースを膝の上に置いたまま、しばらく動かなかった。


 美亜も、隣に座った。何も言わない。


 言葉を出せば、何かが壊れてしまうような気がしていた。


 やがて、炎冥が口を開いた。


「……たぶん」


 声は、低かった。


「そのうち、弾けなくなる」


 断定だった。予感ではない。


 身体の奥で、すでに命の"期限"が刻まれていることを、彼は知っていた。


「……今日の震えは、きっと最初のサインだ」


 指を見つめる。


 さっきまで、世界を形にしていた指。


「音程が狂う。次は、楽器を押さえられなくなる」


 風が、水面を撫でた。


「……その次は」


 言葉が、途切れる。


 美亜は、その横顔を見ていた。


 悲しそうではない。取り乱してもいない。


 ただ、諦め方を探しているようであった。


「……怖くないんですか」


 美亜が、小さく訊いた。


 炎冥は、首を横に振った。


「怖いよ」


 即答だった。


「……でも、慣れてる」


 少し、笑う。


「俺は、壊れるように作られたんだ」


 美亜の胸が、きゅっと縮む。


「……音楽は、その逃げ場所だった」


 炎冥は、夜空を見上げた。


「これまでは、生きていることを実感するために、ただ、音を並べていればよかった。でも、それも、終わる」


 バイオリンケースに、そっと手を置く。


「弾けなくなったら、俺は……何になるんだろうな」


 その言葉を聞いた瞬間、美亜の胸の奥で何かが切れた。


「……それなら」


 声が、震える。


「それなら……私が、聴きます」


 炎冥が、驚いたようにこちらを見る。


「……何を」


 美亜は、自分の胸に手を当てた。


 鼓動は、不安定に跳ねていた。


 でも、今、心に揺るがない思いが生まれた。


「あなたが、弾けなくなっても」


 一歩、彼の方へ身を寄せる。


「あなたが、音を出せなくなっても」


 美亜は、泣いていた。


 だが、声は、はっきりしている。


「……あなたが生きてる限り、私は……あなたの"続き"を聴きたい」


 炎冥の喉が、鳴った。


「……俺の、続き?」


「はい」


 美亜は、必死に笑おうとした。


「だって……、音楽って、弾く人だけのものじゃないでしょう」


 長い、長い沈黙が続いた。


 その中で、美亜は、自分の中に生まれた感情に、はっきりと気づいた。


 生きたい。


 初めて、強く。


「……私」


 美亜は、涙を拭いながら言った。


「あなたの音を、もっと聴きたいから」


 息を吸う。


「だから……生きていたいって、思いました」


 炎冥は、ゆっくりと立ち上がり、美亜の前に立った。


 何も言わず、彼女の肩に、そっと手を置く。


「……弾けなくなっても」


 炎冥は、低く言った。


「俺は、生きる」


 美亜は、大きく頷いた。


「二人、一緒に」


 川の流れは、二人の運命も、何も知らないままに、夜を運んでいく。


 だがこの場所で、二人は知ってしまった。


 失う未来と、それでも選ぶ未来は、同時に存在する


 音楽は、いつか止まる。


 だが――二人の生きてゆく、という旋律は、今、始まったばかりだった。

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