第42話 強奪 2
M4 CSLは、減速せず、土ぼこりを巻き上げながら山道を駆け下りていた。
だが、前方に見えたものを認識した瞬間、炎琳は、初めてブレーキを踏んだ。
研究所が――崩れていた。
かつての"知性"の構造体が、無惨な瓦礫へと変わり果てている。
M4 CSLが停止する。
エンジン音だけが、場違いに響く。
阿羅業は、フロントガラス越しにその光景を見つめ、一言も発しなかった。
炎琳が、静かに口を開く。
「……間に合わなかった、わね」
阿羅業は答えない。
ゆっくりとドアを開けた。
外へ出た瞬間、粉塵と、焼けたコンクリートの匂いが鼻を突く。
空気が、重い。
「……クソったれ」
阿羅業の叫び。
それは、誰に向けた言葉でもなかった。
「研究所も、剛も、龍雅も……全部、持っていきやがった」
炎琳も車を降り、瓦礫の山を見上げる。
事切れた、陸自空挺団のレンジャーの遺体が五つ、瓦礫の中に埋まっていた。
完全に潰された躰は、もはや人としての原型を残していなかった。
元同僚の無残な姿に、波多野は思わず瞑目した。
阿羅業は、瓦礫の山を見渡し、炎琳が、阿羅業を見る。
阿羅業は、崩れた建物の中心――不自然な程に"空洞"になっている部分を凝視していた。
ふっと気が付いたように言葉を放った。
「中身がねぇ」
炎琳の視線が、そこへ移る。
確かに、破壊は激しい。
だが、ある区画だけが、すっぽりと、奇妙に"抜け落ちている"。
阿羅業は首を振った。
「"抜かれた"んだ。最初から、こうなるように作られてた」
炎琳は、息を吸った。
「……箱舟」
その言葉を聞いた瞬間、阿羅業は短く言った。
「うむ、ノアの箱舟か、剛の野郎……最後まで、逃げる算段だけは一流だったわけか」
彼は、躊躇なく瓦礫へ近づき、崩れた隙間に膝をついた。
「車の轍が、残っている」
崩落の謎が解けた――。
「強奪者がx2500を車で引いて盗んでいった……、今、ここにいないのは教授、早乙女と、紅音か。紅音はこの研究所の構造は知るまい、すると強奪者は……」
「教授、早乙女……?」
「ああ、紅音は早乙女に脅されて、攫われたってところだろうな、x2500を弄るのにも、下働きが居た方がいい」
炎琳は、瓦礫の一角に視線を落とした。
御子神研究所は、x2500の強奪者、早乙女の手により、崩落と共に息絶えていた。
研究所の外殻が裂け、梁が折れ、かつて、研究の真理を守っていたはずの鉛壁の残骸が、いまは無差別に、近づく者に対して、牙を剥いているように立っていた。
粉塵が舞い、コンクリートの破片が、小糠雨のように落ち続けていた。
その時、瓦礫の隙間の中から勢いよく、白い影が跳ねて飛び出してきた。
ケイだった。
阿羅業に尾を振って迎えた。
「ケイ!」
ケイは、愛くるしい柴犬の姿に戻って阿羅業に飛びついた。
阿羅業は、ケイを肩に載せて、瓦礫の中に入り、龍雅の行方を求める。
「龍雅は……!」
阿羅業の顔が、強張った。
瓦礫の山、その隙間に、人間の腕が見えた。
折れている。
不自然な角度に腕は捻じれ曲がっていた。
だが――生きている。
阿羅業は、迷いなく瓦礫を掻き分けた。
指先が、龍雅の首に触れる。
脈はある。
弱々しく速いが、規則正しい。
「……生きている。よし」
それだけで十分だった。
阿羅業は、崩落した研究所の"元・手術室"へ、龍雅を引きずり込んだ。
壁は割れ砕け、天井は半分崩れ落ちている。
だが、無影灯は、灯っていた。
「炎琳!血圧計!薬剤、器具、あるもん全部持って来い!」
炎琳は一瞬も躊躇しない。
瓦礫を蹴散らし、使用可能な息をしている器具を集める。
ケイは阿羅業の肩から降りて、低く唸った。
それは警戒ではない。
「ここは守る」という意思の唸りだった。
阿羅業は、龍雅のシャツを引き裂いた。
「左橈骨…骨折。内出血……、肺は……よし、保ってる」
器具は揃っていない。麻酔も十分ではない。
だが、阿羅業は笑った。
「……上等だ。野良手術なら、慣れている」
骨を整復して、臨時のシーネで固定する。
龍雅が、うめき声を上げた。
阿羅業は、低く言った。
「我慢しろ。お前が起きるまで、命は待ってはくれねぇぞ」
数分後。
龍雅の呼吸が、落ち着いた。
意識は、まだ戻らない。
だが――死線は越えた。
阿羅業は、手袋を外し、血に濡れた手を見つめた。
「……まずは、よし」
阿羅業は、瓦礫の山を背に、低く吐き捨てた。
「……早乙女……」
炎琳は、遠く――峠の闇を見つめた。
x2500を引きずったキャデラックが消えていった方向。
「阿羅業……私は、追う。x2500を、早乙女を」
短い言葉だった。
だが、そこには一切の迷いがなかった。
阿羅業は、龍雅を抱き上げながら言った。
「追え。俺は、ここで"医者"に戻る」
炎琳は、頷いた。
崩れた研究所の前で、二人は、役割を分けた。
ひとりは、命をつなぐために残る。
もうひとりは、奪われた、命をつなぐものを奪還するために走る。
M4 CSLのエンジンが、再び唸りを上げた。
夜は、まだ終わっていなかった。
外界では、エンジン音が遠ざかっていく。
キャデラック・エスカレード。
X2500を引きずり、闇へ逃げた漆黒の鋼鉄の野獣。
炎琳が、拳を強く握る。
「……追う」
阿羅業は、龍雅を一瞥した。
「波多野」
「……はい」
「龍雅は、俺が守る。お前は炎琳と二人で――」
阿羅業は、はっきりと言った。
「取り返して来い、娘を救うためにも……」
炎琳が、M4 CSLへ向かう。
波多野は阿羅業に軽く会釈して炎琳に続いた。
エンジンが吠える。
M4 CSLは、崩れ落ちた研究所を背に、峠へ向かって走り出した。
奪われたものを、取り戻すために。
手術灯の下で、阿羅業は、龍雅の額に手を置いた。
「……生きろよ、な」
ケイが、その横に座り、静かに目を閉じた。
研究所は崩れた。だが――。
物語は、ここから追撃に入る。




