第40話 暗闘 18
天羽一曹は、中に入る進入口を模索していた。
研究所の外壁に、直径三十センチほどの通気口が開いている。
本来、人が通るためのものではない。
鉄骨と断熱材に囲まれた、ただの排気経路。
だが、は、そこに躊躇なく指をかけた。
金属が、わずかに軋む。
天羽は動きを止めた。
呼吸を落とす。心拍数が、落ちてゆく。
ほぼゼロに近づける。
振動なし。
反応なし。
(……いける)
天羽は、自分の左肩を"内側へ折りたたむ"ように捻じった。
その間――三秒。
骨が鳴る。
だが表情は変わらない。
肋骨を縮め、
肩甲骨をずらし、自らの人間の構造を"通路に合わせて変形"させる。
彼は、音を立てずに通気口の内部へ滑り込んだ。
内部は暗い。だが、天羽の目には問題なかった。
微細な温度差を感じた。
建物の"生きている部分"と"死んでいる部分"。
……中枢は、何処か。
この研究所は"建物"ではない。
天羽もすでに、そう理解していた。
床下に走るレール。
重量を受けるために不自然に補強された梁。
空間の癖。
……これは……、固定施設じゃない。
彼の口元が、ほんの一瞬だけ動いた。
おそらく可動性が、ある。
天羽は、通気口の格子を、内側から静かに押した。
カチ。
音は、それだけだった。
研究所内部。
非常灯が赤く点滅している。
その赤い光の明滅の中に、
影がひとつ、増えた。
天羽は床へ降り立つ。
膝をつかない。
手もつかない。
ただ、重力と同時に立った。
周囲を一瞥する。
医療機器。
手術台。
壁面モニター。
だが、天羽の視線は装置そのものに留まらなかった。
床。
その下。
……レール……。
台車……。
外壁に張り出した、フック牽引構造物……。
彼は、完全に理解した。
これは研究所じゃない。箱舟だ。
短い通信を入れる。
「……侵入成功。目標内部に到達」
返事はない。
だが、天羽にはそれで十分だった。
彼は銃を構えない。
走らない。
焦らない。
任務は、あくまでも破壊。
人を殺す必要はない。
この装置を止めれば、すべて終わる。
天羽は、x2500の制御パネルへ向かって歩き出した。
その足取りは、
あまりにも静かで――
隣接区画でにらみ合う、紅音と早乙女も、この瞬間は、まだ気づいていない。
研究所内部に、"最も危険な影"が入り込んだ。
戦闘は、これからは――内側で起きる。
研究所の内部で、空気が、わずかに"揺れた"。
天羽一曹は、その違和感を即座に察知した。
『……敵が、戻ってくる』
足音ではない。
風でもない。
生体が空間を切り分けるときの、極微の空気の分子の歪み。
天羽は歩みを止め、制御盤に伸ばしかけた指を引いた。
赤外線像の端で、温度の揺らぎが、ひとつ増えている。
『……異能動物……?いや……"あれ"か』
天羽は、初めて慎重になった。
この研究所には、人間ではない"監視者"がいる。
その揺らぐ温度の持ち主は、人よりも小さい。
小さいからと言って、侮るわけにはいかない。
ここは、陸自の伝説の科学者、御子神剛が居た研究室。
危険な異能動物が隠れていても何の不思議もないのだった。
破壊より先に、自らの存在を、そいつに認識されるわけにはいかない。
天羽は壁際へ滑り、影の密度が最も濃い位置で静止した。
息を潜める。心拍は、忽ちに、ほぼゼロのレベルに到達した。
呼吸は、意識の外へ。
一方――。
研究所の外にいたケイが、突然、動きを止めた。
鼻先が、ゆっくりと上がる。
耳が、後方へ倒れる。
唸りは出ない。
それは、「敵を見つけた時」の反応ではない。
"いつしか家の中に、異物が入った"時の反応だった。
ケイは、踵を返す。
龍雅が気づく。
「……ケイ?」
返事はない。
ケイは、研究所の入口へ向かって駆け出した。
速い。
さっきまでの戦闘の動きとは違う。
内部を守るために走っている。
『……中か』
龍雅は理解した。
『……誰かが……、研究所の"内側"に入った……!』
だが、その瞬間――、龍雅の視界の端に、別の影が映った。
研究所の屋上。
月明かりを背に、人影が、ひとつ。
『……レンジャー……!』
刃物の化身。屋根上から、
眼下の"落ちる位置"を測っている影。
レンジャー香月。
龍雅は、即座に判断した。
「……ケイは中か。俺は……上に行く」
言葉にしながら、すでに体は動いていた。
龍雅は研究所の壁へ走る。
コンクリートに足をかけ、そのまま駆け上がった。
無茶ではある。
だが、迷いはなかった。
香月を、下には降ろさせない。
龍雅の靴底が、壁を蹴る。
手が縁を掴む。
腕が軋む。
骨が悲鳴を上げる。
それでも、止まらない。
屋上の縁に、龍雅の指がかかった。
同時に――、香月が、こちらを見下ろした。
口角が、歪む。
「来たか……御子神龍雅」
刃が、月光を弾いた。
「上から岩を落とすつもりだったが……、自分から来るとはな」
龍雅は、屋上へ身を投げ出す。
M870を構え、息を整える。
「……逃げ場はねぇぞ」
香月が、笑った。
「それは……、お互い様だ」
同じ瞬間。
研究所内部では、ケイが、
闇の中に立つ"無音の影"を見つけていた。
天羽一曹。
最も危険な侵入者と、
最も敏感な守護者。
視線が、空間の中で交差する。
そして、早乙女と紅音。
戦いは、三つに割れて始まった。
上では、刃と銃。
中では、沈黙の探り合い。
壁際では、銃と策謀。
――すべてが、箱舟の中で同時に進行していた。




