第38話 暗闘 16 箱舟(アーク)の胎動
まだ闘いの火蓋が切って落とされる前の御子神研究所。
内部は、緊張の外に取り残されたような静けさに沈んでいた。
銃声、叫びは聞こえない。
だが、x2500の、生物の心臓の鼓動のような低い振動が、床を伝って微かに伝わってくる。
紅音は、M870を抱えて、ひとり研究所の廊下を歩いていた。
龍雅とケイを外へ送り出したあと、
彼女は立ち止まり、振り返った。
理由は分からない、だが、胸の奥に引っかかるものがあった。
研究所の"中心"――x2500の置かれた技術区画。
そこへ向かう途中、紅音は初めて気づいた。
壁と床の継ぎ目が、微妙に、規則正しく並びすぎていることに。
壁の支柱も同じだ。
建築物というより、輸送コンテナのフレーム内部にいるような感覚を覚えた。
紅音はしゃがみ込み、床を指でなぞった。
金属だ。
コンクリートに、可動式の鉄製の台座が仕込まれている。
上を見上げる。
点状にレールが走っている。
そして、奥へ延びたレールの端は、牽引用のジョイント金具。。
「……これは……」
紅音は息を呑んだ。
普通の建物じゃない……。
最初から……"動く"ことを前提にした……可働施設……?
その瞬間、床の奥で 発動機のごく低い駆動音が鳴った。
まるで、巨大な生き物が目を覚ましたような音。
ノアの箱舟、紅音はそう感じた。
かつて、龍雅の父、御子神剛が、未来、追われる事を想定して残した、箱舟としての逃走避難を前提に造られた研究所だ。
紅音は、はっきりと理解した。
……御子神剛博士は……ここを"守りの砦"だなんて、最初から考えてなかった……。
そのときだった。
裏手から、発動機の駆動音が一際、大きく響いた。
重く、太い、獣のような音。
紅音は身を低くし、研究所裏手の非常扉から外を覗いた。
そこにあったのは――キャデラック・エスカレード。
そして、その前で、何かを確認するように工具を動かしている、早乙女の背中。
エスカレードの後部には、牽引装置が展開されている。
考えられる事は只一つ。
早乙女が、この隙に、x2500をどうにかしようとしている。。
紅音は、声をかけた。
「……早乙女先生」
早乙女の肩が、わずかに跳ねた。
だが、振り返らない。
「……やはり君か。気づいてしまったようだね」
紅音は一歩、前へ出た。
「研究所の正体は……最初から、"逃げるための箱舟"」
早乙女は、ゆっくりと振り返った。
無表情のその顔に、焦燥はない。
あるのは、自分だけが真実を知っているという微かなる優越感。
「御子神剛は、臆病だった。だから、こんな逃散用の仕掛けを残した」
「違います」
紅音の声は、震えていなかった。
「御子神博士は……臆病じゃない。x2500に責任をもって生き延びる事を、最後まで考えていた」
早乙女は鼻で笑った。
「綺麗事だな」
彼は、エスカレードのドアに手をかけた。
「丁度いい機会なのでx2500は私がもらう、私が使う。あれは……私の論文になる。御子神龍雅にはもったいない」
紅音は、その背中をまっすぐ見つめた。
「先生……あなたは、御子神龍雅を……、一人の人間として見たことがありますか」
一瞬、早乙女の表情が、ほんの僅かに歪んだ。
「……時間がない。そこをどけ」
紅音は、どかなかった。
ただ、静かに言った。
「この箱舟は……選ぶんです」
「何を――」
「誰を乗せるか」
その言葉が、早乙女の胸に刺さったのが、紅音には分かった。
研究所の奥で、再び、低い駆動音が鳴る。
箱舟が、動き始めている。
早乙女は、初めて、不安そうな目で研究所を振り返った。
その背後で、紅音はそっと、端末を起動した。
x2500の――OS管理画面。
……これを……。
早乙女教授に……"渡さない"ために……。
紅音は、静かに、OS一部の消去コマンドを入力しシステムを落とした。
x2500のOSは、Windowsや、Linuxベースではない。
御子神親子の自作のOS、MIKOGAMI-D.O.Sが採用されている。
紅音が消去したのは、x2500の初期設定起動部分。
紅音の行為で、今やx2500は、龍雅の持っているシステム回復アプリがなければ、遺伝子改造プログラムは起動できなくなっている。
只の筐体にすぎない。
箱舟は、まだ、彼女の側にあった。




