第36話 暗闘 14
「……じゃあ……俺は……誰を信じりゃいい……?」
波多野の声は、森に溶けるように低かった。
そこには、もはや戦士の貌色も、殺戮を生業とする怪物の貌色もなかった。
あったのはただ、病に侵された娘を想う父親の、どうしようもない哀しみだけだった。
銃を握ってきた指は、わずかに震えている。
それは恐怖の震えではない。
怒りの震えでもない。
希望を失いかけた人間が、最後に立ち尽くす、絶望の裡から起こる震えだった。
炎琳は一歩前に出た。
月明かりを背にしたその姿は、相変わらず鋭く、冷たい。
「あなたのお嬢さんを助けられるのは……御子神龍雅。そして、あなたたちが壊そうとしていた、御子神研究所にあるx2500だけ」
波多野の瞳が、わずかに動いた。
「x2500は、毎秒三億キロダルトン規模の有機分子を解析し、最適化して修復することができる。染色体レベルの破壊にも、理論上は……対応できる」
"理論上"という言葉が、炎琳の口から淡々と落ちた。
それは嘘でも誇張でもない。
率直なる事実だった。
波多野が、ゆっくりと顔を上げる。
阿羅業が、その視線を真正面から受け止めた。
「龍雅の技術なら……娘を救える可能性がある。もちろん、確約じゃねぇ。医療に"絶対"はない」
一拍、置いてから続ける。
「だがな……少なくともペシュラのバイオ・スケープ・ナビゲーターよりは、信頼できる」
その言葉に、波多野の奥歯が噛み締められた。
炎琳が、静かに告げる。
「あなたの娘を救う道は……、御子神龍雅を守ること。それしかないわ」
その瞬間、波多野の右拳の震えが、ぴたりと止まった。
「……守る……?」
声が掠れる。
「俺が……敵に回った相手を……?しかも、仲間を裏切れというのか……!おい……!」
怒声は上げた。だが、それは命令に従う兵士の反発ではない。
信じてきたものを失う父親の叫びだった。
阿羅業は肩をすくめる。
「俺たちが敵か味方かなんざ、どうでもいい」
そして、真っ直ぐに言い切った。
「"子どもを救いたい"って理由があるなら、お前はもう敵じゃねぇ」
波多野の口元が、わずかに歪んだ。
苦笑だった。
額から血が一筋、顎を伝って地面に落ちる。
「……医者らしい台詞だな」
「外道の医者で悪いがな」
阿羅業は、笑わなかった。
炎琳が視線を森の奥へ向ける。
「行きましょう。残りのレンジャー、敵、五人……。研究所に向かってる」
時間がない。
波多野は深く息を吸い、最後に自分の膝を、力任せに殴った。
ドンッ。
痛みで身体を現実に繋ぎ止めるための動作だった。
「行く」
低く、だが迷いはない。
「娘のために……御子神龍雅を、守る」
三人の足元から、土が舞い上がった。
BMW M4 CSLのエンジンが再び吠え、
街灯のない奥多摩の闇を切り裂くように走り出す。
波多野は、痛む肩を押さえながら、
誰にともなく呟いた。
「……志津子……、待ってろ……。必ず……助けてやる……」
その声は、祈りに近かった。
暗殺医、外道医、そして娘を案ずる父。
三つの影が、
同じ方向──、御子神研究所へと、走り始めた。




