第34話 暗闘 12
いや、確かに炎琳が仕掛けた浅い毒は、波多野の動きを止めるには足りなかった。
だが──。
"心"へ刃を置くには十分だった。
心に惑いが生じた波多野の拳が空を切る。
その速度は強化兵のままなのに、
拳の軌道だけが"迷って"揺れた。
炎琳はその惑いを見逃しはしなかった。
「……あなた、心が揺れている」
「揺れて……ねぇ……ッ!!」
だが、その声は明らかに裏返っていた。
怒りではない。
恐怖でもない。
娘の命をどうにもできない父としてのいらだちから発する心の痛みが起こす揺れだった。
阿羅業が間隙を抜き、波多野の懐へ潜り込み、
ねじれた右肩関節へ肘を叩き込む。
肩関節が完全に破壊され、鈍い音がした。
「ぐっ──!!」
「波多野、お前の腕はもう使えねぇ!その身体、限界を越えすぎた!!これ以上やりゃ……二度と娘を抱けなくなるぜッ!!」
波多野の眼孔が揺れた。
その揺れは──
たった一滴、
"父親"の涙の雫がたれた。
炎琳が諭す。
「波多野。あなたが娘を救いたいなら──ここで死ぬわけにはいかない。最後にもう一度だけ言うわ。退きなさい」
「……っ……ッ……!」
波多野の拳が振り下ろされる。
阿羅業は受け止める。
砕けた肩関節を支点に振り下ろされた拳。
本来の波多野の力の数パーセントしか衝撃を与えることはできない。
それでも、骨が軋む。阿羅業の腕が悲鳴を上げた。
阿羅業の叫びはもはや懇願に近かった。
「娘は俺たちが助けてやる……だから──倒れろ!!!」
阿羅業の膝蹴りが、波多野の仙骨に正確に突き刺さる。
ガンッッ!!!
波多野の膝が沈む。
「…………ッッ!!」
声にならない声。
波多野の呼吸が、――折れた。
波多野は拳を握ったまま、
地面へ片膝をついた。
二人に対する殺意は、まだ失っていない。
だが、もう身体が動かない。
「……どう……すれば……いい。どうすれば、娘を……救える……んだ……俺は……何を……して……いる……?」
炎琳はゆっくりと近づき、膝をついたままの波多野の肩へそっと手を置いた。
その右肩は砕け、肋骨も数本沈んでいる。
毒の痺れが残り、息は荒かった。
それでも──。
殺意と痛みが沈静化した"今"が、一番人間の顔をしていた。
炎琳。
「……立てる?」
波多野は答えず、両膝に手をついて、ゆっくり体を起こした。
阿羅業。
「立てるかどうかじゃねぇ。"立つ"んだよな、お前は。」
波多野は息をひとつ吐くと、
炎琳へ言葉をかけた。
波多野。
「……毒、浅く刺しやがったな。殺る気なら……俺はもう死んでる。」
炎琳。
「私にも情けは……ある。娘を助けたいという気持ちは私にもわからないでもない」
波多野は拳を握ったまま、左肩を回す。骨が不快な音を立てた。
波多野
「……娘は、七歳だ。染色体が壊れていく病気で、医師に"余命半年"と言われた。途方にくれていた時に声をかけてきたのが、CIAの黒組工作員と、ペシュラ社のエージェントだった。ゲーレン・ダスト様、肝いりの遺伝子統合治療器で壊れていく染色体を修復できるって。俺は……どうしようもなかった。ペシュラ社が……"治せる"と言ったんだ。その条件が─この任務だった」
ゲーレン・ダスト……世界一の大金持ち、未来型パワー・トレインのシズマ・ドライブを動力源とする次世代自動車、ペシュラ・タイプαを売り出し、巨大SNSネットワーク、OS-eXを買収、宇宙開発会社スペース・OS-eXのCEO。
今は、x2500の競合器でもある、遺伝子統合器、バイオ・スケープ・ナビゲーターの開発に大金をつぎ込んでいた。
「ペシュラのバイオ・スケープ・ナビゲーター……、毎秒2キロダルトンの有機分子の修復しかできない。単細胞動物ならいざ知らず、21億キロダルトンもある人の体組織の細胞修復は無理よ……」
「じゃあ、娘は……」
阿羅業がぽつりと呟いた。
「ペシュラのナビゲーターじゃ……治せねぇってことだ。」
波多野の足が止まった。




