第32話 暗闘 10
御子神研究所の入口前の廊下に龍雅とケイは佇んでいた
研究所の肌に触れる空気は、湿度も温度も変わらないのに、何故か、皮膚が薄い刃物の切っ先で撫でられるような異物感で満ちていた。
得体のしれぬ恐怖がそう感じさせるのかもしれない。
龍雅は奥歯を噛みしめ、ショットガンのストックを肩へ押し当てた。
ケイが廊下の先──研究所の正面扉へ向けて、低い姿勢で進んでいく。
背毛が逆立っている。
唸り声は、今まで聞いたことがないほどに低く、そして深い。
グルルルル……ッ……*
ケイも同じ異物感を感じているのだろうか。
紅音がきっぱりと言い放った。
「ケイ……怖がってるんじゃない……あれは……“怒ってる時”……その時の声だと思います……」
龍雅は頷いた。
「そうだな。ケイが“吠えない”のは……、本当に危険な敵に対峙した時だけだもんな」
扉の外で、何者かが“歩いた”。
だが──音はほとんどしない。
靴底が床材へ触れた、とわずかな圧が伝わるだけ。
音ではなく、存在が壁を通して滲んできた。
「……いま……誰か外に……」
「違う。“誰か”じゃない。“何か”だ」
ケイが扉の目前まで進む。
右前足が、床を二度、叩いた。
タン……タン……、と。
龍雅は息を呑む。
『……あれはケイの数を“数える”仕草だった。敵の数……距離……速度を、自己の感覚で図ってやがる……』
「……ケイ。敵は……何人いる?」
ケイは短く、しかしはっきりと──。
ワンッ! ワンッ! ワンッ! ワンッ! ワンッ! ワンッ!
「……六……?」
「ああ。阿羅業さんが言ってた敵。“六つの影”だ」
紅音の唇が震えた。
「恐ろしい……。自衛隊の殺し屋が六人も……」
「六人、しかも化け物の六人……」
扉の外、六つの影がゆっくりと歩いていた。
一列ではない。二列でもない。散開した形でもない。
まるで──、
“影が六つ重なって歩いている”ような錯覚。
足音に個性がない。
呼吸の気配がしない。
龍雅の背を、冷たいものが走った。
ケイが扉に背を向け、
龍雅と紅音の前に立つ。
守るつもりでいるようだ。
「ケイ……あなた……、御子神さんを……守るつもりなの……?」
ケイは喉の奥を震わせ、
低く、深く──声を響かせる
ウオゥゥゥゥ……ッ……!!
昨日までは健気な柴犬にしかみえなかった、ケイが雄々しく変貌して目の前にいる・
紅音の目に涙が浮かんだ。
「……ケイ……お願い……死なないで……御子神さんも……ケイも……死んじゃダメ……」
そのときだった。
研究所の正面扉の金具が、
ゆっくりと“ひとつだけ”動いた。
カチリ……。
紅音が息を呑む。
「……今の……何……?」
「外の奴らが扉を“弄っている”。鍵の強度を確かめてるのか……」
扉が軋んだ。
押すでもなく、叩くでもなく──“次に押し込むために形状を読む”。
静かに扉に圧力が駆けられていく。
ケイが、龍雅の足元に顔を押しつけた。
「……大丈夫だケイ。一緒に撃ち抜く。俺とお前で……紅音を守るぞ」
ケイが一度だけ尻尾を振った。
* *
森の奥で爆ぜるような破裂音が響いた。
「来たか……!」
「……“ひとり”よ。一人だけ、先にこちらへ気づいたみたい」
炎琳は車から降りた。
、
霧の中に立つ黒い影を見つめた。
霧が割れた。
そこにいたのは、
男──。
空挺レンジャーの一人。
波多野。
その瞳には、悲しみと殺意が同量で宿っている。
「森の中を“走って来た”か。生きてりゃ、会えると思ってたぜ」
「来なさい。ここを通れた者は……ひとりもいない」
波多野の眼には激しい闘気が漂っていた。
「俺は通る。このミッションを成功させれば、娘の遺伝子病を、CIA様が治してくれる……救うまでは死ねねぇ」
炎琳がその一言で、全てを察した。
波多野の娘は遺伝子病で、ゲノム治療を受けなければ死ぬ。
CIAはその心を弄び、x2500破壊工作員に仕立て上げた。
「CIA?救えないわ。CIAの遺伝子統合器は、まだまともに病気を治せる代物ではないのよ!」
波多野は炎琳に憎しみの眼を向けた。
「黙れ」
波多野の足元の土が、強すぎる踏み込みで抉れた。
阿羅業が叫んだ。
「炎琳、構えろ。こいつは“本気”で来る」
「任せて」
森の空気が張り詰めた。
龍雅の研究所へ向かって、六つの影が迫っていた。
そのうちのひとつが、ついに炎琳と外道医の前に立った。




