第29話 暗闘 7
「阿羅業さん――!」
通話が途切れた瞬間、研究所は、まるで無人島の密林が夜ごとに孕む"捕食者の気配"を吸い込んだような沈黙に沈んだ。
御子神龍雅はスマートフォンを握りしめたまま、しばらくの間、動けなかった。
何かが胸の奥で千切れた感覚だけが残り、足元の世界がゆっくり揺れ始めたように思えた。
紅音が、蒼ざめた顔で近づいた。
「……御子神さん? いま話してたの、医学部の阿羅業先生ですよね……何か重大なことを?」
龍雅は短く、しかし苦しげに息を吐いた。
「敵が……"来る"らしい。陸自の精鋭部隊だ。こんな山奥まで追ってきやがった」
紅音の肩が細かく震えた。
「追手……。せっかくケイが……あんなに元気になったのに……」
紅音の声が途切れたちょうどそのときだった。
研究室の隅で寝そべっていたケイが跳ね起き、甲高い鳴き声とともに壁へ肉薄した。
ガンッ!
その小さな身体から想像もできない衝撃音だった。
「ケ、ケイ……!?」
ケイは床に、壁に、身体ごと激突を繰り返す。厚い壁に跳ね返されても、何度も、何度でも。
獣が檻を破ろうとするときの動き。だがその目は、怯えているのではない。
ワンッ!! ワンッ!!!
鋭く、短く、そして深い。
たしかに"警告"だった。
「感じてるのか……ケイ。外に何がいる?」
龍雅が問いかけると、ケイは返事を待たずにドアへ突進した。
ドン!
紅音が慌てて抱きかかえようとする。
「ケイ、ダメッ!!」
ケイは激しく身をよじり、牙を剥いた。だが――紅音には決して噛みつかない。
ただ一心に"外へ出せ"と訴えるように吠えた。
グルルルル……ッ!
その声には恐怖がなかった。あったのは、戦う者の声。守護者として生まれ直した、進化した獣の咆哮。
紅音は息を呑み、龍雅へ向き直る。
「御子神さん……ケイ、怖がってません。私たちを……守ろうとしてる」
「守る……?」
「ええ……"敵が来る前に戦場に出せ"って……訴えてます。そんな気がするんです」
ケイは紅音の足元へ戻ると、心配そうに鼻先を寄せたあと――再びドアへ突進した。
ガンッ!!
引っかく爪がドア表面を削り落とす。
ガリガリガリ!!
その鋭利な爪は、X2500が再生時に"付与"したものだ。犬族には存在しない強度と形状。
爪が割れるほどの力で、ケイはドアを抉った。
「……ケイ。外に出たいんだな」
龍雅はそっとケイの胴を抱き上げた。
ケイは振り返り、龍雅の目を真っ直ぐに射抜いた。
その瞳には、迷いも恐怖もなく――ただ一つ、"己が為すべき使命"が宿っていた。
「……わかったよ。外に出してやる。ここで閉じ込めていたら……お前の心が折れる」
「御子神さん……!」
紅音の声が震えた。
龍雅は、部屋を見回す。
そこに、あるべき人間の影がない。
「紅音、あの教授は?」
「さっきから見えません……どこかへ……」
龍雅は舌打ちした。
「最悪だ。紅音、ここで待ってくれ。あいつが味方かどうか、俺にはまだ判断できねぇ。もし様子がおかしかったら銃で……撃て」
紅音は胸に押しつけるようにショットガンを抱きしめ、涙を噛み殺しながらうなずいた。
「……はい」
ケイが最後に短く吠えた。
ワンッ!
それは、時間がないと告げる警鐘だった。
龍雅はガンロッカーを開け、レミントンM870を装填する。
フォアエンドを引いて薬室にOO弾を送り込み、もう一丁を紅音へ手渡す。
「撃てるようにしてある。ためらうな」
紅音は震えながらも、しっかりと銃を握った。
龍雅は、残りの一丁を肩へ。
ドアノブへ手をかける。
背後で、ケイが尻尾を大きく一度だけ振った。
やられるかもしれない。
だが――黙って殺されるつもりはない。
龍雅は、息を鋭く吸い込んだ。
「行くぞ、ケイ……!」
扉が、ゆっくりと開いた。
その先で、冷たい風が"死の匂い"を運んでいた。




