第26話 暗闘 4
「阿羅業神醫」
名を呼ぶ声は、驚くほど柔らかかった。
「……来たか、薄紅よ」
「メッセージに……答えてくれて、ありがとう」
さらりと風に流れたような一言なのに、その裏に"不安"が微かに滲んでいた。
阿羅業は彼女の目をひと睨みし、白衣の袖を翻した。
「行くぞ。龍雅には呼ばれたわけじゃないが"会わなきゃならねぇ理由"がある」
雨の匂いが微かに混じった夜風が吹き抜けた。
阿羅業は煙草を地面に落とし、足先でゆっくり踏み潰す。
助手席のドアが開く。
「……乗って」
阿羅業は乗り込む寸前、路地の奥に潜む黒い影を一瞥した。
「……急げ。しくじるとあいつらは、もう抑えきれねぇぞ」
「任せて。"殺しの相手"なら、取り扱いには慣れている」
ドアが閉まると同時に、BMW M4 CSLは静寂の中から弾けるように走り出した。
反重力にも似た加速度。深夜の外苑東通りを獣が駆け抜けるかのように突き進む。
その車内で、二人は一言も発さなかった。
言葉よりも、互いの体温に近い"使命"があった。
奥多摩で、命が決まる。
そして二人は、その中心へ向かっていた。
午後十一時になった。
炎琳が、インパネの電話通話アイコンをタッチした。
相手が出たが、話し声は聞こえてこない、代わりにバイオリンを奏でる音が聞こえてきた。
炎琳は何かしらほっとした表情で通話を終了した。
阿羅業は何か言おうとしたが、思いとどまり窓の外をちらりと見た。
『炎琳にも、定時連絡を取り交わす相手がいるのか。死の医者にも、人間の一面が残っていたとはな……』
妙に納得した気分になった。
BMW M4 CSLは、ハイウェイを弾丸のように駆け抜けていた。
夜の路面を撥ね飛ばす音すら、獣の咆哮に聞こえる。
阿羅業は助手席で腕を組み、ぼそりと訊いた。
「……なあ炎琳。お前、さっき仕込んだ兵隊、何人だ?」
「三十、あと、神経毒素を仕込んだ殺人スズメ蜂のケースが六個、三百匹」
アクセルをさらに踏み込みながら淡々と答える。
「三十人の功夫戦部隊と合わせれば──第一空艇団の精鋭でも止められる」
阿羅業は呆れた顔で答える。
「ちょっといないぜ、殺人スズメ蜂とはな、……エグすぎるぞ、相変わらずだな」
「ふっ、わざわざ旧友の息子の命を救うために、自分の命を危険に曝す医者もちょっといないわよ」
阿羅業は鼻で笑った。
「龍雅は……生きるべき男だ。死なせられない」
「理由は?」
「……ない」
その即答に、炎琳はちらりと横目を送った。暗殺医の眼に、ほんの少しだけ"柔らかさ"が灯った。
「……優しいんですね」
「優しくなんかねぇよ。ただ──"生きるべき者"を死なせるのが嫌なだけだ」
炎琳はゆっくりと微笑んだ。
その時だった。
ハイウェイの路肩──。
ヘッドライトの境界線に、影の姿が映った。
人影。
だが、常人の動きではなかった。明らかに特殊訓練を受けたものの身の捌きだった。
『奥多摩の森、もう入口ってわけか』
阿羅業は炎琳に告げた。
「炎琳……スピード上げろ。あいつら、もう森に入ってる」
「――言われなくても」
アクセルが床を叩く。
M4 CSLはエンジンを吠えさせ、加速した。
奥多摩の闇が、大きく口を開く。
"第一次戦"は、もう始まっている。




