第四話 強請の科学 その2
「……っ!」
屈辱的な名前で呼ばれて、吐き気を催してうつむいた。この身に流れる血が忌々しくて体中がかゆくなる。その態度がミルヴァートンの琴線に触れたのか、さらに傷口を抉るように捲し立ててくる。
「お母さまはお独りでパン屋を営んでいるとか。さぞ貧しい日々を送って来たのでしょうに。ラメルダ卿から仕送りはございましたの? ない? そうですわよね? まぁまぁ! お可哀そう! 親子そろってお父様から愛されていないだなんて! わたくしなら生きていけませんわぁ。恥ずかしくって! あー貧乏くさい。
ところでお母さまは売女だったんです? 大貴族と一夜を過ごすなんて、一体どうやったんですの? 貧しいならお得意の“仕事”をすればよかったのに。まさか、操を立てていたとか? あはは! 親子共々捨てられたというのに健気ですわねぇ。笑ってしまうほど馬鹿で哀れな女ですこと。みすぼらしい。汚らわしい。救いようがありません。
それにしても、メアリさん。この帝国一の大学によく入れましたわよね。どうせ今までの人生勉強しかしてこなかったんじゃありませんか? 恋も知らずに机にかじりついて。ええ? どんな気分なんです? わたくし、まったく想像もつきません。そんなつまらない人生があるだなんて。どんな気持ちなのか教えてくださるかしら?
それに、です。あなた、貴族がお嫌いでしょう? ここに入学してお父様を見返したかったんですよね? わたしを見て~って。ふふ、可愛らしい。そんなことで、ラメルダの血族として認知されるとでも? 復讐できるとでも? “特別”になれるとでも?」
「ち、ちがっ」
顔を上げるとミルヴァートンの顔がすぐ近くにあった。白い顔に表情はない。甘い香りの不快さに顔を背けるも顎を掴まれて戻された。
「メアリさん。あなた、平民としてこの大学に受験しましたわよね。
わたくしがこの秘密を公にすれば、どうなると思います?
この大学にはいろんな背景を持つ学生がいますけれど、平民達はどう思うでしょうか?
裏切り者、貴族のくせに平民面しやがってと石を投げつけるのでは?
貴族達はあなたのことを貴族と認めるでしょうか?
高貴な我々と一緒にするなと汚物のように扱われるのでは?
大学側もあなたの存在を認めるでしょうか?
虚偽の申告をしたということで退学になるのでは?
消したと思った存在が湧いて出てきて、ラメルダ家はどう思うでしょう?
あなたの存在を改めて消し去ろうと思うのではなくって?
そうなれば、あなたのお母さまもただでは済まないのでは?
ああ、お労しい。
わたくしがこの秘密を暴露すれば、メアリ・ワトソンのこれまでの努力は水泡に帰し、居場所がすべてなくなってしまう。
そればかりか今やあなたの御命までも、わたくしの思うがまま。掌の上!」
甘い香りが脳へと広がり、まるで金色の糸に思考が絡められたように何も考えられない。頭が真っ白だ。
「メアリさん。取引をしましょう。
あなたが知っていること、全部話してください。
記録を渡してください。
言い値で買います。
秘密も完全に破棄いたしますわ。
お約束します。
ほんのささやかな投資で、あなたは救われるんです。
なんの問題もなく、日々を送れるんです。
それだけではありません。
嫌いなんでしょう? 貴族のことが。
復讐したいんでしょう?
本懐を遂げたいんでしょう?
なら、やるべきことは簡単です。
さぁ、メアリさん。取引をしましょう。
わたくしの気が変わらないうちに、さぁ早く!
この手をお取りなさい」
ミルヴァートンはカウチに大きく背を預け、遥か高見から見下ろすように手を差しだしていた。
「……どうして、そこまでするの。そんなにパーカーを貶めたいの?」
「ええ。はい。なんとなく虫唾が走りますので。飽きるまで遊んだ後、退学させて、法王庁に突き出しますわ」
言葉を失った。こんな奴に好き勝手言われて、なにも言い返せない自分が情けなくて、涙があふれて来た。
「あぁ泣かなくていいんですよ。
この手を取れば、あなたもわたくしのお友達に加えてさしあげます。
あの忌々しいヒーロー気取のパーカーなんてどうでもいいじゃありませんか。
ただの他人ですよ?
あなたも気に入らなかったんでしょう?
あの女といつも比べられて、惨めで仕方がなかった。
わたくしにはメアリさんのお気持ちが手に取るようにわかります。
難しく考えなくていいんです。
わたしの言うとおりにしておけば、それでいいんですよ。
あなたの身が一番大切。
あなたが一番得をする選択をするべきなんです。
だれもあなたを責めません。
わたくしがそんなことさせませんわ。
さぁさぁさぁ。何をするべきかは、もうお分かりですね?」
とても優しい声色。
包容力に満ち溢れた、味方に掛ける言葉だ。
わたしはあふれる涙をぬぐった。
もう、どうなってもいいや。
考えるのが面倒くさい。
はやく終わらせたい。
そして、誘われるように手を伸ばして……
――振り払った。渾身の力を込めて、振り払った。
「痛っ!」
「わたしを舐めるな! 馬鹿にするな! 醜く肥え太った薄汚いドブネズミめ! 死んでもお断りだ!」
腹の底から怒りが湧き出てくる。息が切れる。こめかみの血管が脈動している。きっと目も血走っているのだろう。絶対零度の空気の中で、ふぅー、ふぅーっとわたしの荒い息使いだけが聞こえていた。
ミルヴァートンが沈黙を破るのに数分かかった。腫れた手を抑え、顔を真っ赤にしながら呪詛のごとく唸った。
「……もっと賢い方だと思っていましたのに。いいでしょう。ネコの皮を剥ぐ方法は一つじゃ――」
しかし、後が続かない。辺りをしきりに見回し「なんの匂いです?」と虚空に呟いた。
なんの匂い? 周囲を見回して鼻を鳴らしてみる。煙……? いや、これは焦げ……!?
わたしはミルヴァートンと顔を合わせると、バッと扉を見た。扉の隙間から、煙が立ち込めている。
――か、火事だああああああああ!!!!!
遠くから絶叫。血の気が急転直下に落ちていく。
わたしとミルヴァートン。二人そろって危機的状況に置かれたと理解するのに、そう時間はかからなかった。




