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社畜令嬢ですが断罪されたので本日から定時退勤します  作者: 渚月(なづき)


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第9話 贖罪の代償

法廷の翌日——二つの出来事が、私を待っていた。


一つ目は、グスタフ局長が拘留先で自ら命を絶ったという知らせ。


遺書には一行だけ——「許しを乞う相手は、もうこの世にいない」


ゲッツ様のことだろう。局長は最後まで、自分がゲッツ様の死に関与したのかしなかったのか、明かさないまま逝った。真実を墓の中に持っていった。


その知らせを聞いたとき、私は自宅の机の前に座っていた。足から力が抜けそうになって、椅子の肘掛けをつかんだ。


年末の繁忙期に二人で深夜まで残り、局長が淹れた不味い茶を飲みながら、来年の予算配分について語り合った夜があった。あの穏やかな時間が、もう二度と戻らない。


けれど真実は——真実は、いつも人の望む形では現れない。


ゲッツ様が手帳に託した信念を、今なら理解できる。見えないところに積もった真実は、時に残酷だ。けれど、目を逸らすわけにはいかない。


局長の死は、この事件が残した二つ目の犠牲だった。一つ目はゲッツ様。不正に気づいたために殺された人。二つ目はグスタフ局長。不正に加担し、その重みに耐えきれなくなった人。


(どちらも——救えなかった)


その無力感が、鉛のように胸に沈んでいた。



そしてその午後。二つ目の出来事が訪れた。


「すべて、父上の企てだった。俺は——何も知らなかったんだ」


ハインツの声は、途切れ途切れだった。


王宮の中庭、人目を避けた石のベンチ。かつて二人で将来を語った場所だ。あの頃、ここに座って「いつか二人で穏やかに暮らそう」と話していた。秋には紅葉が散り、春には白い花が咲くベンチ。花びらが風に舞うのを二人で眺めた日もあった。もう、別の時代のように感じる。


「婚約破棄も——父上に言われるまま。イルゼを排除しなければ不正がバレると。ルティアを後任に据えれば、何も分からないだろうと」


「あなたは、それに従ったんですね」


「……ああ」


ハインツは項垂れた。かつての婚約者——社交界では「切れ者の宰相の息子」と評されていた男が、今はただの怯えた青年に見える。目の下に深い隈があり、頬がこけている。髪も乱れて、いつもの端正な身なりは跡形もない。この数日間、彼も眠れていないのだろう。


「知らなかったとは言わせない。少なくとも、私を切り捨てることには同意したでしょう。あの大広間で、私がどんな思いをしたか——あなたは隣の令嬢の手を握って、見ていたはずです」


声は静かだった。怒りを通り越して、もう何も感じない。かつて愛していたはずの男を前にして、心が凪いでいる。もうこの人に何かを期待することはない。それが分かるのは、寂しいことではなく——ただ、事実だった。


「イルゼ、頼む。俺が協力する。父上の書斎に——決定的な証拠がある」


「どんな証拠ですか」


「グランツ商会との密約書だ。父上が直筆で署名したもの。取引の分配率、金の流し方——全てが書かれている。あれがあれば、言い逃れはできない」


密約書。もしそれが本物なら、宰相を完全に断罪できる。


けれど——。


「なぜ今になって。あの大広間で、あなたは何もしなかった。私が断罪されるのを、黙って見ていた。局長が告白するのも、ただ後ろで震えていただけ。なぜ今になって動くのですか」


ハインツは顔を上げた。その目は、初めて真っ直ぐに私を見ていた。


「……ゲッツ老人のことを聞いた」


ハインツの声が震えた。


「あの人は——俺が子供の頃、宮廷に遊びに行くと、よく菓子をくれた。『坊ちゃん、勉強は大事だよ』って。優しい人だった。あの人まで殺すなんて——俺は、そこまでの覚悟はなかった。そしてグスタフ局長も——もう誰も死んでほしくないんだ」


ハインツの手が震えている。恐怖と罪悪感が入り混じった、情けない震え。


信じるべきか。この男は、一度私を裏切った。父親の言いなりになって、私を切り捨てた。その同じ男が、今度は父親を裏切ろうとしている。


(人の言葉は変わる。記録は変わらない)


自分の信条が頭をよぎった。けれど同時に、アルヴィンの父の話を思い出す。制度だけでは、人は救えない。人が変わる瞬間を——たとえそれがどんなに遅くても——信じる余地を残さなければ。


「……分かりました。ただし、条件があります」


「何だ」


「密約書を私に直接渡すこと。そして法廷で、全てを証言すること。——逃げたら、あなたも同罪として告発します」


ハインツは一瞬たじろいだ。けれど、やがて小さく頷いた。


「……分かった。もう、逃げない」


その夜。ハインツが持ってきた書類を、アルヴィンと二人で検分した。


羊皮紙に書かれた密約書。宰相ローゼンベルクの直筆署名と、グランツ商会代表パウル・グランツの署名。日付は八年前。蝋の封印が施され、二つの紋章が並んでいた。書斎の奥深くに隠されていたという。ハインツは父親の留守中に持ち出したらしい。手が震えていたと言っていた。それでも持ってきた。父親を裏切る決断がどれほどの重さだったか——私には分かる。私も、十年間信じていた上司に裏切られた人間だから。裏切りの痛みは、裏切られた者にしか分からない。だからこそ、遅すぎたとしても、ハインツの決断を受け止めることができた。


羊皮紙は紙と違い、動物の皮を加工して作られる。適切に保管すれば数百年は持つ耐久性があり、インクが繊維に深く染み込むため、後から書き足したり消したりすれば痕跡が残る。中世から公文書に羊皮紙が使われてきたのは、この改竄耐性ゆえだ。歴史上、数百年前に書かれた契約書が今でも法的効力を持つ事例があるほどだ。


「署名の筆跡は、宰相の公式文書と一致する。インクの退色具合も、八年前という時期と矛盾しない。羊皮紙の状態も経年劣化と一致している」


アルヴィンがルーペを置いた。


「これで——全ての証拠が揃った」


私は深く息を吐いた。長い、長い息だった。肺の奥に溜まっていた何かが、ようやく外に出ていくような感覚。


「明日の法廷で、決着をつける」


アルヴィンが立ち上がった。その目に、静かな炎が灯っている。


「イルゼ」


今度は、彼のほうが名前で呼んだ。


「これが終わったら——少し休め。焼き栗でも買って」


「……覚えてたんですか、あのとき」


「忘れるわけがない。あれが、あなたと初めて会った日だ」


不意に、胸が熱くなった。あの夕暮れの城下町。焼き栗の包みを両手で握っていた私に、この人は声をかけてくれた。あのとき、私はもう味方は誰もいないと思っていた。


少しだけ——ほんの少しだけ、目の奥が滲んだ。すると、アルヴィンが何も言わずに手巾を差し出した。その不器用な優しさに、胸が詰まった。


「ありがとう、アルヴィン」


「……礼はまだ早い」


そう言って彼は背を向けた。けれどその耳が、月明かりの中で赤くなっているのが見えた。


——翌日。全てが決まる法廷が、始まろうとしていた。


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