第10話 退勤の鐘が鳴るとき
最後の法廷の空気は、これまでとは明らかに違っていた。
大広間に集まった貴族たちの数は前回の倍以上。噂が広まったのだろう。壁際にまで人が溢れ、普段は閑散としている二階の傍聴席にまで人影がある。議長席のエルヴィン殿下は、厳しい顔で書類に目を落としていた。
宰相ローゼンベルクは——平然と座っている。少なくとも、そう見えた。けれど私の目は、彼の左手がわずかに震えているのを捉えていた。十年間、書類の細部を読み取る目を鍛えてきた。その目は、嘘を見逃さない。
「審理を再開する。本日は、新たな証拠の提示と、証人の証言を求める」
まず、ハインツが証人席に立った。かつての婚約者は、私の方を一度だけ見た。その目には、覚悟と後悔が半々に浮かんでいた。もう逃げない——昨日の言葉を、彼は守ろうとしている。
「宰相の息子として証言します。父——アルベルト・ローゼンベルクは、グランツ商会との間で密約を結び、十年以上にわたり国庫から資金を流出させていました」
広間が揺れた。実の息子による告発——これほどの衝撃は、誰も予想していなかっただろう。壁際の貴族たちが動揺の声を上げ、扇を落とす者までいた。
「貴様——!」
宰相が立ち上がった。顔が紅潮し、威厳のある顔立ちが醜く歪んでいる。もう取り繕う余裕すらなかった。
「実の父を売るのか!」
「売るのではありません。——真実を語るのです」
ハインツの声は、不思議なほど落ち着いていた。あの怯えた青年の面影は消え、覚悟を決めた男の顔がそこにあった。
続いて、私が密約書を提出した。
「この密約書は、羊皮紙に宰相閣下自身の手で署名されたものです。羊皮紙の特性上、後からの改竄は不可能です。署名の筆跡およびインクの経年劣化は、公式文書と照合済みです」
アルヴィンが補足説明を加える。封蝋の鑑定結果、資金の流れの追跡報告、グランツ商会の実態——全てが、宰相の犯罪を指し示していた。証拠の一つ一つが、鎖のように繋がっている。
宰相は最後の抗弁を試みた。
「これは偽造だ。解任された文官の復讐に過ぎない!」
「宰相閣下」
私は一歩前に出た。声は震えていない。
「十年間、私はこの国の財務を守るために働いてきました。一銭の誤差も出さず、休日も祝日も返上して。——あなたが盗んだ金を、知らずに繕い続けていたのです」
広間が、水を打ったように静まった。
「私の上司だったグスタフ・ホルン局長は、あなたの脅迫に屈して不正に加担し、その重圧に耐えきれず自ら命を絶ちました。ゲッツ・リンネ次官補は、不正に気づいたために命を奪われました」
声が詰まりそうになった。けれど堪えた。ゲッツ様の手帳を握る手に、力を込めた。
「私が求めるのは復讐ではありません。ゲッツ様が残した記録が——真実を語っています。私はただ、その声を届けているだけです」
沈黙が広間を包んだ。長い、長い沈黙だった。
やがて、エルヴィン殿下が口を開いた。
「証拠は十分だと判断する。宰相アルベルト・ローゼンベルク——全ての職務を停止し、王家による正式な裁判を行う」
宰相の顔から、ゆっくりと血の気が引いていった。広間を連行される際、彼は一度だけ振り返ってハインツを見た。その目に浮かんでいたのは——怒りでも絶望でもなく、どこか空虚な諦めだった。十年間にわたり国を食い物にしてきた男の最後は、あまりにも静かだった。広間に残された貴族たちは、しばらく誰も口を開けなかった。やがてエルヴィン殿下が閉廷を宣言し、ようやく人々が動き始めた。
◇
それから三ヶ月が経った。
宰相アルベルト・ローゼンベルクは国庫横領およびゲッツ次官補の殺害への関与を含む全ての罪状を認め、爵位を剥奪された。グランツ商会は解体され、代表のパウル・グランツも共謀罪で裁かれた。不正に流出した資金の回収が始まり、地方領への交付金も適正な額に是正された。
ゲッツ様の名誉は回復された。王太子の命により、財務局の書庫には「ゲッツ・リンネ記念文庫」が設けられ、彼の三十年分の個人記録が正式な参考資料として保管されることになった。
ハインツは証言の功績を認められたが、自ら宮廷を去った。
「イルゼ。俺にはもったいない女だった」
「ええ。——でも、最後に正しいことを選んだあなたは、嫌いではありません」
それだけだった。それで十分だった。彼は小さく笑って、背を向けた。その背中は、父親の影から初めて抜け出した、自分自身の足で歩く背中だった。
エルヴィン殿下から、財務局長官の職を打診された。
「一つだけ、条件があります」
「言ってみろ」
「定時退勤を、認めてください」
殿下が目を瞬いた。
「私は十年間、この王宮に人生を捧げてきました。休みも、夕焼けも、焼き栗の味も——全て犠牲にして。もう、あんな働き方はしたくないんです。仕事は全力で致します。けれど、定時には帰ります。それが許されないなら——私は、この王宮を去ります」
長い沈黙の後、エルヴィン殿下は笑った。あの日、廊下で初めて見せてくれた穏やかな笑みと同じ顔だった。
「いいだろう。定時退勤を認める。ただし、後進の育成も頼むぞ。君一人に頼り切る組織は、もう作らせない」
「もちろんです。私一人で回す財務局は——もう、作りません」
ルティアは財務局に残った。泣いてばかりだった彼女が、今では基本的な決裁処理をこなせるようになっている。先日は、為替の換算ミスを自力で見つけて修正していた。
「イルゼ局長、この書式で合ってますか……?」
「合っています。——ルティアさん、少し自信を持って。あなたはちゃんと成長していますよ」
「は、はい!」
あの子の成長を見るたびに思う。人は、適切な環境と支えがあれば、変われる。私だって、ゲッツ様の温かい茶がなければ、十年も続けられなかった。一人で全てを抱え込む必要はない。それが、この事件から学んだ一番大切なことだ。
そして——アルヴィン。
定時退勤した私を、正門の前で待っている男。
「今日も焼き栗か」
「季節が変わったら、焼きリンゴにしましょう」
「……贅沢な女だ」
「定時に帰る女は、贅沢ぐらい許されるべきです」
アルヴィンが呆れたように——けれど柔らかく、笑った。最初に会ったときの、あの氷のような灰青色の目が、今はずいぶん温かい色をしている。
並んで歩く。肩が触れそうで触れない、あの絶妙な距離。彼の歩幅が、いつの間にか私に合っていることに気づいている。けれど指摘はしない。きっと彼も、気づいているから。
夕暮れの城下町を歩きながら、ふと思う。
十年間の残業と、一秒の断罪。あの日、全てを失ったと思った。けれど——失ったからこそ、見つけたものがある。
夕焼けの色。焼き栗の温かさ。信じられる人の横顔。そして——定時に帰るという、ささやかだけれど、かけがえのない自由。
ゲッツ様の手帳は、今も私の書斎にある。時々開いて、あの几帳面な文字を眺める。
真実はいつも、見えないところに積もっている——。
その言葉を胸に、私は今日も、きちんと仕事をして、きちんと帰る。
五つの澄んだ鐘の音が、夕空に溶けていった。
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