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社畜令嬢ですが断罪されたので本日から定時退勤します  作者: 渚月(なづき)


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第8話 王太子の選択

法廷は、王宮の大広間に設えられた。


あの日——断罪された、あの場所だ。同じ黄金の燭台、同じ石造りの壁、同じように居並ぶ貴族たち。けれど今日は、あの日とは立場が違う。


私は告発者として、ここに立っている。


王太子エルヴィン殿下が議長席に着いた。正装の白いマントが、燭台の灯りに照らされている。その傍らに、宰相ローゼンベルクが厳しい顔で腰を下ろしていた。白髪を整えた壮年の貴族。威厳のある佇まいは揺るぎない。この場においてもなお、彼は「宰相」としての仮面を外さない。長年にわたり権力の中枢にいた人間特有の、揺るがない自信が全身から漂っている。


ハインツはその後ろに控えていた。目を合わせてこない。青白い顔で、膝の上で両手を握りしめていた。


グスタフ局長は——辞表の受理が保留されたまま、証人席に座らされている。顔色が悪い。額に薄い汗が浮いていた。目は虚ろで、まるで別人のようだった。かつての穏やかな上司の面影は、そこにはなかった。その姿を見て、怒りよりも先に胸が痛んだ。この人もまた、巨大な不正の歯車に巻き込まれた一人だったのかもしれない。弱い人間だった。けれど、弱いことが罪だとは、私には言い切れない。私だって、十年間見て見ぬふりをしてきた。局長の不自然な行動に気づけたはずなのに、信じたいという気持ちが目を曇らせていた。


「本日、王家監査局より重大な報告が上がっている。監査官アルヴィン・クレーフェ、そして元財務局文官イルゼ・ヴェスト——前へ」


アルヴィンと並んで、広間の中央に歩み出る。


足が震えていた。けれど歩幅は乱さない。靴の底が石の床を打つ音だけが規則正しく響く。隣のアルヴィンの外套の裾が、私の視界の端でかすかに揺れている。その存在が、言葉よりも心強かった。


あの日、この広間で断罪されたとき、私は一人だった。誰も味方がいなかった。けれど今は——隣に、この人がいる。


「報告を始めてくれ」


アルヴィンが口を開いた。その声は、広間の隅々まで届いた。


「過去十年間にわたり、グランツ商会を通じて行われた物資調達取引に、組織的な水増しが確認されました。水増しされた取引は百八十七件。差額の総計は、一国の年間軍事費に匹敵する規模です」


広間にどよめきが走った。貴族たちが互いに顔を見合わせ、扇の陰で囁き合う。


アルヴィンの報告は、正確で、冷徹で、容赦がなかった。取引件数、差額の根拠、金の流れ先。全てが証拠に裏打ちされている。感情を一切排した、事実の羅列。それがかえって、不正の深刻さを際立たせていた。


続いて、私が立った。


「元財務局文官イルゼ・ヴェストです。これより、証拠書類の照合結果を報告いたします」


ゲッツ様の手帳と、壁板の裏から見つかった書類。私の十年分の控え。そして公式台帳。四つの記録を並べ、差異を一件ずつ指摘していく。


声は落ち着いていた。自分でも不思議なほどに。ゲッツ様の手帳を手にするたび、あの穏やかな笑顔が浮かぶ。「一枚ずつでいい」——その言葉が、私の声を支えてくれていた。


「第七書庫から発見されたこの伝票の封蝋は、正規の財務局印とは異なります。蝋の成分に松脂が含まれておらず、紋章の彫りも規格と一致しません」


封蝋の実物を、拡大した拓本とともに提示した。議場が静まり返った。息を呑む音すら聞こえるほどの静寂。


宰相ローゼンベルクの顔色が、徐々に変わっていくのが見えた。平静を保とうとしている。けれどその左手が——椅子の肘掛けを白くなるほど握りしめていた。


「これらの証拠は、故ゲッツ・リンネ次官補が長年にわたり独自に記録し、保管していたものです」


ゲッツ様の名前を口にした瞬間、声が掠れそうになった。けれど堪えた。


「次官補の死因については、王家監査局による再検の結果、自然な心臓発作ではない可能性が示されています」


広間が騒然となった。壁際の貴族たちから声が上がり、一部は立ち上がりかけた。議長席のエルヴィン殿下が片手を上げて静粛を求めると、ようやく騒ぎが収まった。


「異議あり!」


宰相が立ち上がった。その声は大きく、威厳に満ちていた。長年の政治家としての迫力が、広間全体を圧する。彼は一瞬で場の空気を掌握した。さすがは数十年間、この国の政を動かしてきた男だ。ただの告発で潰せる相手ではない。


「このような——解任された文官の、私怨に基づく告発を、法廷が受理するのか! 証拠と称するものも、偽造の可能性を排除できないではないか!」


「宰相閣下」


アルヴィンの声が、広間を切り裂いた。静かな声だ。けれどその静けさが、宰相の大声よりもずっと深く響いた。


「これは私怨ではなく、王家監査局の正式な調査報告です。四つの独立した記録の照合によって裏付けられています。そしてこの調査を命じたのは——」


全員の視線が、議長席に集まった。


「——私だ」


エルヴィン殿下が、静かに立ち上がった。


「宰相閣下。グランツ商会の出資者名簿に、ローゼンベルク家の名がある。この件について、ご説明を願いたい」


宰相の顔から、初めて余裕が消えた。仮面に、ひびが入った瞬間だった。十年間、この国を思うままに操ってきた男が、初めて追い詰められている。その光景を、私は静かに見つめた。感情は不思議なほど凪いでいた。恨みではない。ただ、長い嘘の幕が下りた。それだけのことだ。けれど、その静けさが何よりも重かった。


そして——グスタフ局長が、証人席で崩れた。


「すべて……宰相閣下の指示でした」


局長の声は、震えていた。肩が小さく見える。あんなに穏やかだった笑顔が、今は苦痛に歪んでいる。


「最初は、ほんの小さな金額だった。断れなかった。宰相閣下の力は絶大で——逆らえば、私の家族にまで手が及ぶと。それがいつの間にか——止められなくなっていた」


局長は一度言葉を切り、深く息を吸った。その手が膝の上でぶるぶると震えている。


「ゲッツにも……気づかれていた。あいつは何も言わなかったが、記録を残していることは知っていた。けれど私は——見て見ぬふりをした」


「ゲッツ次官補の死について、何か知っていますか」


アルヴィンの問いに、局長は長い沈黙の後、首を横に振った。


「私は——知らない。知りたくなかった。知ってしまえば、もう……取り返しがつかないから」


その答えが真実かどうか、この場では分からなかった。けれど局長の目から流れた涙は、本物に見えた。


(……局長。あなたは弱かった。弱くて、逃げた。でも——最後に真実を語った。それだけは)


恨みとも憐みともつかない感情が、胸の中で渦を巻いた。十年間の「よくやっている」は——嘘ではなかったのかもしれない。私を利用していた罪悪感の裏返しとして、せめて言葉だけでも本物にしようとしていたのかもしれない。


けれど、それを確かめる機会は——もう、残されていなかった。


——この法廷の決着は、翌日に届く知らせによって、もう一段深い傷を残すことになる。


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