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社畜令嬢ですが断罪されたので本日から定時退勤します  作者: 渚月(なづき)


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第7話 裏切りの連鎖

証拠の照合は、深夜に及んだ。


アルヴィンの監査局の奥、灯りの届かない書庫で、私たちは記録を突き合わせていた。ゲッツ様の手帳、壁板の裏の書類、私の控え、そして公式台帳の写し。


四つの記録。それぞれ別の人間が、別の場所で、別の時期に記したもの。この四つを並べることで、真実と嘘の境界線が浮かび上がる。一つの嘘をつくのは簡単だ。けれど四つの記録を同時に欺くことはできない。


西洋の宮廷では古くから、財務の不正を防ぐために「複数台帳制」が採用されてきた。同じ取引を異なる担当者が別々の台帳に記録し、定期的に照合する。もし数字が食い違えば、そこに不正の痕跡がある。ゲッツ様が個人の手帳に記録を残していたのは、まさにこの原理を信じていたからだ。


「過去十年間、グランツ商会を経由した水増し取引は百八十七件。差額の合計は——一国の年間軍事費に匹敵する」


アルヴィンが淡々と読み上げる数を、私は別の紙に書き写していく。集計が合っているか二重に確認するためだ。窓の外はとうに暗く、灯りは机上の蝋燭だけだった。


「それだけの金が、どこに消えたのか」


「宰相家の領地経営に流れている。表向きは領地の開発事業として処理されているが、実態は——」


「私腹を肥やしていた、と」


「端的に言えばそうなる。領地の開発事業の記録も確認した。実際の工事は名目の三割程度しか行われていない。残りの七割の金は——消えている」


七割。それだけの金が十年間流れ続けていたことを思うと、めまいがする。その金があれば、地方の街道をどれだけ整備できただろう。飢饉のときに、どれだけの民を救えただろう。


蝋燭の炎がちらちらと揺れた。ふと、アルヴィンが手を止めた。


「イルゼ嬢」


「はい」


「……少し休め。目の下が酷い」


不意の言葉に、思わず頬に手を当てた。


「鏡がなくても分かる。顔色が悪い」


「あなたこそ」


アルヴィンの目の下にも、相変わらず濃い影が刻まれている。人のことを言える立場ではないだろうに。


彼はわずかに肩をすくめた。


「私は慣れている」


「私も慣れています。十年間ずっと、こんな生活でしたから」


しばし見つめ合い——なぜか、二人同時に視線をそらした。妙に気まずい沈黙が、蝋燭の灯りの中に漂った。


アルヴィンが窓辺に立ち、薄い月明かりに目を細めている。その横顔は、いつもの鋭さとは少し違って見えた。角が取れたような、静かな表情。夜風が窓の隙間から忍び込み、彼の黒い髪を微かに揺らした。


「監査官になった理由を聞いてもいいですか」


聞いてから、踏み込みすぎたかと思った。けれどアルヴィンは、窓の外を見たまま静かに答えた。


「父が、冤罪で職を失った。宮廷文官だった。上官の不正を告発しようとして、逆に横領の罪を着せられた」


(——私と同じだ)


心臓が痛いほどに脈打った。


「父は最後まで自分の記録を信じていた。けれど、誰も取り合わなかった。記録を見てくれとどれだけ頼んでも、誰も目を通さなかった。証拠はあったのに。制度を信じて働いた人間が、制度に裏切られた。父はその後——酒に溺れ、数年で体を壊した」


アルヴィンの声には、普段の鉄のような冷静さの下に隠された痛みが滲んでいた。窓の外を見つめるその目が、遠い過去の記憶を映しているようだった。


「あれから、私は監査局を志した。記録を見る人間が必要だと思った。証拠を正しく読み、正しく判断する人間が。——父と同じ目に遭う人を、これ以上出したくなかった」


窓の外で、夜風が木々を揺らしている。月明かりが彼の横顔に銀色の線を描いていた。


「だからあなたは——私の話を聞いてくれたんですね」


アルヴィンは振り返らなかった。けれど、微かに頷いたのが分かった。


(この人は——同じ痛みを知っている)


人ではなく事実を信じる。それが私の信条だった。けれど今、この人の横顔を見て——事実を信じるのと、人を信じないのは、同じことではないのだと気づいた。事実を積み重ねた先に、信じるに足る人がいる。記録が繋いだ縁。それは偶然ではなく、必然だったのかもしれない。ゲッツ様の手帳が私をここに導き、アルヴィンの父の記憶が彼を監査官にした。二つの記録が、私たちを引き合わせた。そしていつか——この事件が終わったら。その先のことを考えるのは、まだ早い。今は、目の前の仕事に集中する。定時退勤は——その後の話だ。焼き栗も、夕焼けも、全部その後でいい。



翌日、状況が急転した。


グスタフ局長が、突然の辞表を提出したのだ。


「体調不良による辞任」——表向きの理由はそうなっている。だが辞表が出たのは、私が第七書庫の書類を持ち出した三日後だ。偶然ではあり得ない。しかも辞表は宰相府を経由せず、直接王太子の元に提出されていた。つまり局長は、宰相にも知られたくないほど急いでいた。


局長は、私が証拠を手にしたことに気づいた。あの日の書庫での視線。壁板のずれに気づいた目。あれは、やはり警告だったのだ。そして局長は——逃げようとしている。


「逃がすわけにはいかない」


アルヴィンの声は、初めて感情を帯びていた。普段の冷静な口調の下に、怒りが滲んでいる。彼の父のことを思い出したのだろう。あのときも、不正を働いた上官は逃げおおせた。同じことを、繰り返させるわけにはいかない。


「局長の辞任が受理される前に、証拠を王太子殿下に提出する。イルゼ嬢、準備はいいか」


「……はい」


けれど、ひとつだけ気がかりがあった。


グスタフ局長。十年間、私を育ててくれた人。入局したばかりの頃、決裁書類の書き方を一から教えてくれた。赤インクの使い方、差し戻しの作法、上官への報告の仕方。失敗したときは厳しく叱り、成功したときは「よくやった」と言ってくれた。「君は私の自慢の部下だ」——その言葉がどれだけ私の支えになっていたか。


その人が不正に手を染めていたと、証拠が示している。


(信じたくなかった。十年間の「よくやっている」が、全部嘘だったなんて。けれど——)


「イルゼ嬢」


はっとした。アルヴィンが、静かにこちらを見ていた。


「感情は分かる。だが——」


「証拠で動く。分かっています」


深く息を吸った。吐いた。もう一度。


(大丈夫。私は、ゲッツ様に恥じない仕事をする)


アルヴィンが、何も言わずにペンを差し出した。


「報告書を書こう。二人の名前で」


その「二人の名前で」という言葉が、不思議なほど心に沁みた。十年間、一人で抱え込んできた重荷を、初めて誰かと分け合っている。一人で全てを背負わなくていいのだと、この人は教えてくれている。


ペンを受け取る指先が、アルヴィンの指にかすかに触れた。温かかった。彼の手が一瞬だけ止まって——けれどすぐに離れた。何事もなかったかのように、彼は自分の書類に目を落とした。


けれどペンを握り直すその手が、ほんの一瞬だけ止まったことに、私は気づいていた。


——翌日の法廷に向けて、最後の夜が始まった。


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