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社畜令嬢ですが断罪されたので本日から定時退勤します  作者: 渚月(なづき)


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第6話 監査官の真意

アルヴィンに呼ばれたのは、三日後のことだった。


いつもの監査局の執務室。けれど今日は、空気が違った。いつもは完璧に片づいている彼の机の上に、分厚い書類の束が積まれている。そしてアルヴィンの表情が、いつにも増して硬い。顎の線がきつく引き締まり、目の奥に疲労と緊張が同居していた。


「座ってくれ」


私は促されるまま椅子に腰を下ろした。椅子の軋む音が、しんとした部屋にやけに大きく響いた。


「グランツ商会の取引記録を、過去十年分洗い直した」


「十年分、全てですか。それは相当な——」


「三日三晩かかった。だが、やった価値はあった」


アルヴィンの目の下には、濃い隈が刻まれている。頬もやつれ、普段はきちんと整えられている襟元がわずかに乱れていた。この人は、三日間ほとんど寝ていないのだ。私のために——いや、真実のために。


「その結果——水増しの総額が判明した。イルゼ嬢、これは財務局だけの問題ではない」


アルヴィンが示した集計表を見た瞬間、息を吞んだ。


水増しの規模が、想像を遥かに超えていた。軍の補給予算、王宮の修繕費、さらには地方領への交付金——あらゆる費目に水増しが紛れ込んでいる。手口は巧妙で、一件あたりの水増し額は小さい。けれどそれが十年分、百八十七件の取引で積み重なると——国の根幹を揺るがす額になる。


しかも、費目が分散しているのがたちが悪い。一つの費目だけなら目立つが、軍事費、修繕費、交付金と分けることで、個別に見れば「やや高い」程度の誤差に見える。全体を俯瞰して初めて、異常な総額が浮かび上がる仕組みだ。


「これだけの規模を動かすには、財務局長一人では不可能だ」


「……宰相府が関与している、ということですか」


「少なくとも、宰相の決裁がなければ通らない規模の予算操作だ。年間の予算配分そのものを歪めないと、これだけの差額は生まれない」


アルヴィンがもう一枚の書類を差し出した。指先が、わずかに力を込めているのが分かった。


「これは?」


「ゲッツ次官補の検死報告書。私の権限で、再検を依頼した」


心臓が跳ねた。手を伸ばして受け取った紙が、指の間で微かに揺れた。


「結果は——」


「心臓の発作で間違いない。ただし、発作を誘発する特定の植物性の成分が微量検出された。自然に摂取するものではない。食事か飲み物に混入された可能性が高い」


つまり——。


「殺された、ということですか」


声が震えた。自分でもどうしようもなかった。頭では分かっていた。分かっていたけれど、こうして文字にされた証拠を突きつけられると——。


ゲッツ様は、あの穏やかな笑顔のまま、誰かに命を奪われた。不正に気づいていたから。証拠を残そうとしたから。毎朝温かい茶を淹れてくれた、あの優しい手が——もう二度と、湯気の立つ杯を差し出してくれることはない。


あの最後の日も、ゲッツ様は私に茶を淹れてくれた。いつもと同じように。もしかしたら、それが最後になると分かっていたのかもしれない。それでも、いつもと同じことをしてくれた。


あの日、書類の山を前に泣きそうだった私にかけてくれた言葉が、胸の奥で響いた。


拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。痛い。でも、この痛みがなければ、泣いてしまいそうだった。


「イルゼ嬢」


アルヴィンの声が、低く、静かに響いた。


「感情で動くなと言った」


「……分かっています」


「ならば今は証拠を固めろ。ゲッツ次官補の無念は——法廷で晴らす」


その言葉に、歯を食いしばって頷いた。今は、感傷に浸っている場合ではない。証拠を積み上げる。ゲッツ様がそうしたように。静かに、確実に、感情に流されず。


ゲッツ様が三十年かけてやったことを、私も引き継ぐ。感情ではなく、記録で。涙ではなく、証拠で。それが、ゲッツ様から受け取った遺志だ。あの手帳の重みを、決して無駄にはしない。



翌日。思いもよらない人物が、私の前に現れた。


財務局での引き継ぎを終えて正門に向かう途中、廊下の柱の陰からぬっと姿を見せたのは——


「イルゼ・ヴェスト嬢」


王太子エルヴィン殿下だった。


護衛もつけず、ひとりで。質素な外套を羽織り、王太子の正装ではない。お忍びということだろう。廊下には他に誰もいない。西日が石壁を橙色に染め、二つの影が長く伸びていた。


「殿下……」


身が強張った。この人は、あの大広間で私を断罪した張本人だ。あの冷たい声で、私の十年間を否定した人。


「そう警戒するな。断罪の件は——私も真相を知りたいと思っている」


私は目を見張った。


「驚くのは無理もない。だが、あの断罪は宰相府から上がってきた報告書に基づいたものだ。宰相が『確実な証拠がある』と言い、報告書には財務局長の署名もあった。私は——検証が不十分だったことを認める」


エルヴィン殿下の目は、大広間で見たときとは違っていた。あのときは冷たく、判決を読み上げる裁定者の目だった。けれど今は——苦いものを噛みしめるような、悔いを含んだ目だ。


王太子とはいえ、二十八歳の青年だ。父王から政務を任され、老獪な宰相に囲まれ、十分な情報もなく判断を迫られる。あの日の断罪が、宰相に巧妙に誘導された結果だったとしたら——この人もまた、利用された被害者の一人なのかもしれない。


「宰相府がどこまで腐っているか、私にも見えていなかった。だがアルヴィンから報告を受けて——これは放置できない問題だと判断した」


(殿下は……味方、なのだろうか)


まだ判断がつかない。あの断罪で受けた傷は、簡単には癒えない。人前で恥をかかされ、婚約を破棄され、職を奪われた。その全てを命じたのは、目の前のこの人だ。


けれど——。


「殿下。一つお聞きしてもよろしいですか」


「何だ」


「ゲッツ次官補の死を、ご存じでしたか」


エルヴィン殿下の表情がわずかに曇った。


「知っている。そして——心臓発作という公式発表を、私は疑っている。三十年仕えた文官が、あのタイミングで死ぬ。それを偶然と片づけるほど、私は愚かではない」


その一言で、私の中の何かが少し動いた。この人は、少なくとも真実に目を向けようとしている。自分の過ちを認め、正そうとしている。


「……協力は、ありがたく存じます。ただし殿下、一つだけ」


「何だ」


「私は証拠でしか動きません。お立場への忖度はいたしかねます」


エルヴィン殿下は一瞬、目を丸くした。そして——笑った。初めて見る、その穏やかな笑みだった。権力者としての仮面が外れた、ひとりの人間としての笑顔。それは大広間で冷酷な判決を下した人物と同一人物とは思えないほど、柔らかかった。


「……面白い女だな、君は。分かった。証拠で語れ。——私はそれを受け止める」


敵だと思っていた人物が、手を差し伸べている。


けれど——信じるべきかどうかは、まだ分からない。


——けれど私の中の何かが、少しずつ変わり始めていることに、まだ気づいていなかった。


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