第5話 封蝋は語る
グランツ商会の登記記録は、王都の商業管理局に保管されていた。
アルヴィンが取り寄せた記録を、二人で並べて読む。監査局の執務室に、紙の擦れる音だけが響く。窓から差し込む光が、書類の上に四角い影を落としている。
「設立は十五年前。代表者はパウル・グランツ。王宮との取引開始は十二年前——」
「私が財務局に入る二年前ですね。つまり私が着任する前から、この商会は王宮に食い込んでいた」
「そうだ。そして——」
アルヴィンが一枚の書類を指で示した。
出資者名簿。商会を設立する際に出資した者の一覧だ。商業管理局に届け出が義務づけられている公式書類で、偽造すれば商業法違反になる。
そこに、見覚えのある名前があった。
ローゼンベルク家。ハインツの実家。現宰相の一族だ。
(……繋がった)
宰相家が出資する商会が、王宮の物資調達を独占している。そして、その取引内容には水増しの形跡がある。
これは個人の横領ではない。もっと大きな構造——宰相家が関与する組織的な不正だ。
私は書類を机に置いた。指先が、かすかに震えている。怒りではない。この国の中枢で、こんなことが十年以上も続いていたという事実への——ただ純粋な衝撃だった。国を支える財務の仕組みそのものが、内側から蝕まれていた。私が毎日夜遅くまで働いて守っていたと思っていたものの裏で、誰かがその金を掠め取っていた。
「けれど、出資しているだけでは証拠にはなりません。合法的な投資と言い逃れる余地がある」
「分かっている。必要なのは、水増し分の金がどこに流れたかの証明だ。金の流れを辿れば、必ず尻尾を掴める」
アルヴィンの声は淡々としている。けれどその目は鋭い。窓の光を受けて、灰青色の瞳が銀色にも見えた。
「封蝋の件、続きがある」
彼が取り出したのは、二つの封蝋の拓本だった。薄い和紙に蝋の凹凸を写し取ったもの。左が公式の財務局印、右が問題の伝票から採取したもの。
並べて見ると、差は歴然だった。
「紋章の彫りの深さが違います。それに蝋の色味も——正規品はやや暗い赤ですが、こちらは明るい」
「ああ。正規の封蝋に使う蝋には、微量の松脂が混ぜてある。これは蝋の強度を上げる伝統的な技法だ。松脂を加えることで融点が上がり、夏場でも封が崩れにくくなる。長期保存される公文書には必須の処置だ」
アルヴィンは拓本を光に透かしながら続けた。
「だがこの偽造印に使われた蝋には松脂が含まれていない。つまり、公文書の封蝋に関する実務知識がない人間が作ったものだ」
封蝋の蝋に松脂を混ぜるのは、中世ヨーロッパから続く技術だ。教皇庁の文書管理でも用いられ、数百年前の封蝋が今なお原形を留めているのは、この松脂のおかげだと言われている。知らなければ作れない。知っていれば、決して省略しない。実務を知る者と知らない者を分ける、決定的な違いだ。
「つまり、偽造者は封蝋の実務に詳しくない人物」
「少なくとも、財務局の実務を長年やっていた者ではない。——イルゼ嬢、これであなたの嫌疑はほぼ晴れる。もしあなたが不正を働いたのなら、封蝋の松脂を省くようなミスは犯さない」
胸の奥が、じわりと温かくなった。十年間の仕事を、この人は正しく評価してくれている。私の実力を——私が積み上げてきたものを、証拠として認めてくれている。「あなたなら、こんなミスはしない」——その言葉の裏には、私の能力への信頼があった。
けれど、嫌疑が晴れるだけでは足りない。ゲッツ様の死の真相。そして、この不正の全容。まだ道の半ばだ。
◇
引き継ぎのために財務局を訪れると、異変が起きていた。
廊下を若い文官たちが慌ただしく走り回っている。書類を抱えた文官が角で別の文官とぶつかり、紙が宙を舞った。ルティアの悲鳴じみた声が執務室から漏れ聞こえた。
「どうされました」
「外国への四半期支払いの期限が——今日までだって知らなくて——書式も分からなくて——」
ルティアは書類に埋もれて泣きそうになっていた。目が真っ赤で、頬にインクの跡がついている。髪も乱れて、社交界の「可憐な花」の面影はどこにもない。
外国への支払い手続きは、確かに複雑だ。相手国ごとに書式が異なり、通貨の換算率も日々変動する。使う暦まで国によって違う。私は毎四半期、三日がかりでこの作業をこなしていた。それを経験のない者がいきなりやれと言われても——。
(ほら。だから言ったのに)
口には出さない。代わりに、袖をまくった。
「書式はこちらです。換算率は本日付の公示を使います。まず、優先度の高い三件から片づけましょう」
「えっ……手伝ってくれるんですか?」
「これは国の信用に関わります。支払いが一日でも遅れれば、相手国との信頼関係に傷がつく。外交上の信用は、一度失えば取り戻すのに何年もかかる。私個人の感情とは別の話です」
二時間で処理を終えた。私が一人でやれば一時間で済む量だったが、ルティアにも手を動かしてもらいながら、一つ一つ手順を説明した。教えることは、自分のためにはならない。けれど、この子が育てば——いつか、この国の財務の一端を担える人材になるかもしれない。
ルティアは目を真っ赤にしながら、何度も頭を下げた。
「イルゼさん……本当に、ごめんなさい。私、何も知らないで、この席に——」
「あなたが望んでここに来たわけではないでしょう」
ルティアが唇を噛んだ。
「……ハインツ様に言われたんです。『君なら大丈夫』って。でも大丈夫じゃなくて——毎日、何が何だか分からなくて——夜も眠れなくて——」
この子も、利用されているだけなのだ。ハインツの都合のいい駒として、私の代わりに据えられた。実務能力ではなく、従順さだけを理由に。怒りの矛先が、またひとつ定まった。ハインツ。あなたは自分が何をしたのか、分かっているのだろうか。この子の涙も、私の十年も、全部あなたの無責任が生んだものだ。けれど今、怒りをぶつける相手はハインツではない。その後ろにいる、もっと大きな影だ。宰相ローゼンベルク。全てを操る黒幕の名前が、頭の中で鳴り響いた。
「ルティアさん。一つだけ教えてください」
「はい」
「グスタフ局長が最近、執務室を空けることが増えていませんか」
ルティアの目が泳いだ。
「……実は、ここ数日、午後になるとお出かけになって。行き先は聞いても教えてくれなくて。戻ったときには手が汚れていたこともありました。何か、書類を燃やしたような——煤のような跡が」
(やはり)
局長は証拠を処分しようとしている。壁板の書類が持ち出されたことに気づいて、残りの痕跡を消そうとしている。こちらが全ての証拠を揃える前に、向こうが先手を打つかもしれない。一刻の猶予もない。時間がない。
帰り道、夕焼けがまた赤かった。
封蝋の成分、出資者名簿、局長の不在と不審な行動。証拠が揃いつつある。けれど、まだ足りない。
決定的な一手が、必要だ。
——そしてそれは、思いもよらない場所から現れることになる。




