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社畜令嬢ですが断罪されたので本日から定時退勤します  作者: 渚月(なづき)


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第4話 消えた三千の樽

第七書庫は、王宮の東棟でも最も奥まった場所にある。


天井が低く、窓もない。蝋燭の火だけが頼りの、忘れられたような空間だ。現役の文官でもここに足を運ぶ者は少ない。古い記録が眠る場所——言い換えれば、誰も見ないと分かっている場所。


私は引き継ぎの合間を縫って、ここに来ていた。鞄の中にはゲッツ様の手帳と蝋燭が二本。


書庫の空気は黴と古い紙の匂いがする。棚に並ぶ記録の背表紙には、十年前、二十年前——中には三十年以上前のものもある。埃が積もった革表紙に触れると、指先に時間の重みが伝わってくる。ゲッツ様が若い頃に綴った記録も、このどこかに眠っているのだろう。


壁板の裏を見なさい——ゲッツ様の走り書きを頼りに、書棚をひとつずつ確認する。重い棚を動かすたびに、床の石畳に擦れる音が暗闇に響いた。埃が舞い上がり、蝋燭の灯りの中できらきらと光った。


三段目の棚を動かしたとき、壁板の一枚がわずかに浮いているのに気づいた。よく見ると、板の端にごく小さな印がある。ゲッツ様が使っていたインクと同じ、深い藍色の点。見落とすほうが自然なくらい、小さな目印だった。何年も前からこの印はここにあったのだろう。誰にも気づかれず、ゲッツ様だけが知る秘密の扉として。


指先でそっと押すと、板がずれた。その奥に、油紙に包まれた書類の束。油紙は書類を湿気から守るための古典的な保存法だ。ゲッツ様は、この書類を長期間保管するつもりだったのだ。何年も、あるいは何十年も——いつか誰かがこれを見つける日のために。


(……これは)


物資の調達記録だった。王宮が外部の商会から購入した食料、建材、布地——日常の運営に必要な消耗品の伝票。どれも正式な書式で、財務局の印が押されている。


一見すると何の変哲もない。けれど、ゲッツ様の手帳と照らし合わせた瞬間、違和感が浮かび上がった。


三年前の秋。ワイン樽の発注記録——公式台帳では「三千樽」となっている。


しかしゲッツ様の記録では「千八百樽」。


差分は千二百樽。王宮で使うワイン樽の一樽あたりの相場を考えれば、千二百樽分の代金は莫大な額だ。それがどこかに消えている。たった一回の取引で。


同様の差異を探すと、次々に見つかった。建材の発注額、布地の仕入れ価格、備品の購入数。いずれも公式台帳のほうが実態より多い。ゲッツ様はそれを一つ一つ、自分の手帳に記録していた。何年もかけて、静かに、誰にも気づかれないように。三十年の忍耐。それがこの手帳の重みだ。一人の文官の良心が、油紙の中に眠っていた。ゲッツ様は三十年間、この瞬間のために記録を続けていたのだ。


(私に濡れ衣を着せた理由が、これか……)


パズルのピースが、静かに嵌まっていく。


私は正確すぎたのだ。十年間、一銭の誤差も出さなかった。公式台帳と現場の実態を照らし合わせる仕事を、誰よりも丁寧にこなしていた。だから、横領がバレる前に——邪魔な私を排除する必要があった。


蝋燭の火が揺れた。空気の流れが変わった。誰かが書庫の扉を開けた。


「イルゼ嬢、何をしている」


聞き覚えのある声に振り返ると、財務局長官——グスタフ・ホルンが立っていた。


私の直属の上司。十年間、私を指導し、育ててくれた人。「君がいてくれるから、私は安心して眠れる」——そう言ってくれたこともある。


穏やかな笑みを浮かべた壮年の男。蝋燭の灯りに照らされたその表情は、いつもと変わらない。けれど今、その目が笑っていないことに、私は気づいた。口元は微笑んでいるのに、目の奥は冷たい。蝋燭の明かりに照らされた局長の影が、壁に大きく伸びている。


「引き継ぎ資料の補足を探しに参りました、局長」


「そうか。……ここは古い記録しかない。探し物なら、私に聞いてくれればいい」


その声は穏やかだった。けれど、一歩、こちらに踏み出した足音が妙に大きく響いた。


「ご心配なく。もう見つかりましたので」


壁板の書類は、すでに鞄の中だ。


グスタフ局長の視線が一瞬、壁板のほうに動いた。板がずれたままなのを見て、そしてすぐに私の鞄に戻った。その一連の視線の動きを、私は見逃さなかった。十年間、書類の細部を見つめてきた目は、人の視線の動きも逃さない。


(気づいた——のかしら)


けれど彼は何も言わず、微笑んだまま道を譲った。


「無理はしないように。もう君の仕事ではないのだから」


その言葉の裏に何が込められているのか。善意か、警告か。十年間信頼してきた上司の笑顔が、初めて怖いと感じた。


書庫を出るとき、背中に局長の視線を感じた。振り返りたい衝動を堪えて、一定の速さで歩く。速すぎれば焦りを悟られる。遅すぎれば不自然だ。鞄の中の書類が、ずしりと重い。


廊下を曲がったところで、ようやく息を吐いた。心臓が早鐘を打っている。掌に汗が滲んでいた。局長の穏やかな笑顔が、まだ脳裏に焼きついて離れない。あの笑顔の下に、何が隠されているのか。


(十年間、毎日あの笑顔を見ていた。それなのに、何も気づかなかった)


自分の観察力を過信していたのかもしれない。書類の誤りは見つけられても、人の心の嘘は見抜けなかった。


その夜、アルヴィンの元へ書類を届けた。


彼は一枚一枚、丁寧に内容を確認した。蝋燭の灯りの下で、二人分の影が書類の上に落ちている。


「この取引先——グランツ商会。聞いたことは?」


「王宮御用達の商会です。物資調達の大半を担っています。……ですが、取引内容を直接確認したことはありません。発注は局長が直接行い、私は決裁書類の処理だけを任されていましたから」


「つまり、発注の実態を知る機会がなかった」


「はい。意図的に遠ざけられていたのかもしれません。今にして思えば、局長は私を発注業務には絶対に近づけなかった」


アルヴィンの指が、書類の端を軽く叩いた。


「封蝋について知識は?」


「基本的なことなら」


「この伝票の封蝋を見てくれ」


差し出された伝票の封蝋——赤い蝋の刻印を、蝋燭の光に透かしてみる。


封蝋の技術は古くから偽造防止に用いられてきた。蝋に刻印する紋章の精度、蝋そのものの成分、押印の角度や圧力——これらが一致しなければ、真正なものとは認められない。


「……おかしいですね」


「気づいたか」


「この封蝋、紋章の線が太いです。正規の財務局印は、細い線で紋章を刻みます。つまり——」


「別の印が使われている可能性がある」


アルヴィンが初めて、かすかに口の端を上げた。笑みとは呼べないほど微かな変化だったが、私には分かった。


これは「進展」だ。


「明日、グランツ商会の登記を調べる。イルゼ嬢——引き続き、協力を頼む」


帰り道、夜風が頬を撫でた。星がよく見える夜だった。


手帳と書類と、封蝋の違和感。点と点が、少しずつ線になりつつある。


けれど、あの書庫でのグスタフ局長の目。あれは——。


(……まさか。でも、証拠を見てしまった以上、目を逸らすことはできない)


——グランツ商会。その名前の先に、何が待っているのだろう。


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