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社畜令嬢ですが断罪されたので本日から定時退勤します  作者: 渚月(なづき)


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第3話 老文官の遺した一通

ゲッツ様が亡くなった。


その知らせは、引き継ぎ二日目の出勤途中に届いた。城下町の伝書局で、見覚えのある封蝋が押された手紙が待っていた。財務局の公印ではなく、ゲッツ様の個人印だ。亡くなる前日に投函されたものらしい。


「昨夜未明、自室にて。死因は心臓の発作——」


手紙を持つ指先が震えた。文字がにじんで見える。けれどそれは、インクのせいではなかった。


ゲッツ様。あの白髪交じりの温かい笑顔。毎日、私より少しだけ遅れて出勤して、必ず茶を淹れてくれた人。三十年以上もこの王宮に仕え、誰よりも多くの記録に目を通し、誰よりも静かに仕事を愛していた人。


私が入局したばかりの頃、書類の山に埋もれて泣きそうになっていた私に、ゲッツ様はこう言った。「一枚ずつでいい。一枚ずつ片付ければ、どんな山でもいつかなくなる」と。あの言葉を、私は十年間の支えにしてきた。


(……発作?)


六十七歳という年齢を考えれば、不自然ではない。けれど、私の中の何かが引っかかっていた。


ゲッツ様は先月の定期検診で「健康そのもの」と言われていた。それを嬉しそうに報告してくれた姿を、私は覚えている。「この調子なら、あと十年は働けるな」と笑っていた。あの笑顔が、まだ瞼の裏に残っている。


そして何より——私が断罪された翌日に、突然の死。あまりにもタイミングが良すぎる。いや、良すぎるという言い方は正確ではない。あまりにも——都合が良すぎる。誰かにとって。


自宅に戻り、黒い喪服に着替えた。涙は——出なかった。出せなかった。泣いている場合ではないと、体が勝手に判断したらしい。


鏡の中の自分は、目の下の隈が一段と濃くなっている。十年間の疲労と、二日間の衝撃がそこに刻まれていた。それでも背筋だけは真っ直ぐだ。ゲッツ様の前に出るのに、背中を丸めるわけにはいかない。



葬儀は簡素だった。


ゲッツ様には家族がいなかった。独身を通し、王宮の官舎で一人暮らしを続けていた。参列者は財務局の若い文官が数名と、私だけ。花も少なく、棺は飾り気のない白木。


あれだけ長く王宮に仕えた人の葬儀が、こんなに静かでいいのだろうか。三十年間、毎日のように王宮の記録を守り続けた人が、これだけの見送りで逝ってしまうのか。この国は、仕えた者の功績をこんなにも簡単に忘れるのか。


棺に手を置いた。木の冷たさが、掌から腕へと伝わってくる。ゲッツ様が好きだった茶葉を一握り、棺の中に入れさせてもらった。


ゲッツ様の顔は穏やかだった。まるで眠っているように見えた。唇の端にわずかな微笑みさえ浮かんでいるように見えるのは、私の願望だろうか。あの「一枚ずつでいい」と言ってくれた口元が、もう二度と動くことはない。


参列していた若い文官の一人が、小さく鼻をすすった。ゲッツ様は若手にも慕われていた。厳しいことは言わないが、仕事の姿勢で無言の手本を示す人だった。


式の後、ゲッツ様の部下だった若い文官が、小さな包みを差し出してきた。息を切らしていて、人目を気にするように周囲を見回していた。


「次官補が……亡くなる前日に、これを預かってほしいと。あなたに届けるようにと言われました」


前日に。つまり、ゲッツ様は自分に何かが起きることを予感していた。


包みの中には、古びた革表紙の手帳が一冊。使い込まれた革の端がすり減って、丸みを帯びている。ゲッツ様がいつも胸ポケットに入れていた手帳だ。会議の席でも、廊下ですれ違ったときでも、いつも胸元にこの革の角が覗いていた。


開くと、几帳面な文字がびっしりと並んでいた。


日付、金額、取引先、承認者——財務局の公式記録とは別に、ゲッツ様が独自につけていた業務の記録。


西洋の宮廷では、古くから「影の台帳」と呼ばれる慣行がある。公式記録とは別に、信頼できる文官が個人的に記録を保管するのだ。公式記録が改竄された場合に、真実を証明するための最後の砦。この慣行は中世イタリアの都市国家にまで遡ると言われている。ゲッツ様は三十年間、その砦を一人で守り続けていたのだ。


最後のページに、走り書きがあった。いつもの几帳面な字とは違う、急いで書かれたような乱れた筆跡。


「イルゼ嬢へ。第七書庫の奥、壁板の裏を見なさい。——真実はいつも、見えないところに積もっている」


呼吸が止まった。


ゲッツ様は知っていた。何かを知っていた。だからこそ、この手帳を——自分が死ぬかもしれないと予感して——私に託した。


手帳を胸に抱きしめた。革の匂いと、かすかなインクの香り。ゲッツ様がいつも纏っていた、あの匂いだ。


(ゲッツ様、あなたが残してくれたもの——必ず、読み解いてみせます)


葬儀の翌日——アルヴィンとの約束の日だ。私は約束通り監査局を訪れた。


アルヴィンは執務室で待っていた。机の上には紙一枚なく、壁際の書棚だけが異様に膨れている。書棚の中身は全て背表紙に番号が振られ、几帳面に整理されていた。この人の仕事への姿勢が、この部屋に表れている。


「座ってくれ」


「ありがとうございます。……これを」


私はゲッツ様の手帳と、自分が保管していた十年分の業務記録の写しを机に並べた。


アルヴィンは無言で手帳を開いた。ページをめくる音だけが、静かな部屋に響く。彼の指先は長く、ページを扱う仕草が丁寧だった。記録を大切に扱う人間だということが、その一つの動作から伝わってくる。ゲッツ様と同じだ。記録を愛し、記録を信じる人間。この王宮にも、そういう人がまだいたのだ。


やがて、彼の目の色が変わった。氷のような灰青色の奥に、何かが灯ったのが分かった。


「この記録……財務局の公式台帳と照合したか?」


「まだです。昨日受け取ったばかりなので。ですが、ゲッツ様の記録と私の控えを突き合わせれば、差異があるかどうかはすぐに分かります」


「差異があれば——」


「公式台帳のほうが改竄されている可能性がある、ということになります」


アルヴィンが初めて、わずかに目を見開いた。


「協力する」


短い一言。けれどその声の重さを、私は正確に理解した。王家直属の監査官が、解任された文官の側に立つ。それがどれだけ異例なことか。彼自身のキャリアを賭けた判断だ。もし私の訴えが間違っていれば、彼の経歴にも傷がつく。それでも彼は「協力する」と言った。


「条件がある」


「何でしょう」


「感情で動くな。証拠だけで動け。——この件は、おそらくあなたが思っているより深い」


手帳を返しながら、アルヴィンは窓の外に目を向けた。


「ゲッツ次官補の死……私のところにも報告は来ている。心臓発作と記録されていた」


「……ですが」


「ああ。——調べる価値はある」


それ以上、彼は何も言わなかった。多くを語らない人だ。けれど、必要な言葉は決して省かない。その沈黙の中に、確かな意志がある。言葉より雄弁な沈黙というものがあることを、この人は知っている。


監査局を出ると、空はどんよりと曇っていた。


手帳の重みが、鞄の中でずしりと腕にかかる。


(見つけます。必ず)


——第七書庫の奥、壁板の裏。ゲッツ様が隠した「真実」が、私を待っている。

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